2006年11月13日 (月)

吉田靖監督「悔しさがないと選手は成長しない」

 【コルカタ(インド)12日共同】サッカーのアジア・ユース選手権(19歳以下)最終日は12日、当地で行われ、日本は決勝で北朝鮮に延長を終えて1-1からのPK戦で3-5で敗れ、初優勝を逃した。6度目の決勝進出も頂点には届かなかった。
 日本は前半4分に先制を許したが、同34分に柏木(広島)が同点ゴール。後半、延長は両チームとも得点がなかった。PK戦では日本の1番手、梅崎(大分)が失敗。北朝鮮は5人全員が成功した。
 3位決定戦は韓国が2-0でヨルダンを下した。日本など今大会の4位までは来年6月30日にカナダで開幕するU-20(20歳以下)ワールドカップ(W杯)に出場する。
(了)

[ 共同通信社 2006年11月13日 1:23 ]

 吉田靖監督率いる日本ユース代表は、2007カナダでのU-20W杯の出場を手にしたのち、アジアユースチャンピオンの座を目指したが惜しくも準優勝に終わった。吉田靖氏のことは筆者の以前のエントリーを参照してください。

 筆者もテレビ放映などでその姿を確認したが、24年前と殆ど変わらない。試合後のインタビューで声を聞いたが、試合後であるから声はかすれているし多少うわずった話し方だが、24年前は「シャイなお兄ちゃん」のような感じで淡々と話していたように思う。
 
 今大会でのユース代表については他のブロガーに任せることにして、もう少し吉田靖氏の現役時代について語ってみたい。

 筆者が氏をよく観ていたのは氏が学生時代、終盤でのキャリアの頃である。
 
 早稲田で主将を張り、学生選抜でも主将に選ばれていたりもした。思うに生まれながらのリーダー資質であったように筆者の目には映っていた。
 当時は日韓定期戦の前座で学生代表同士のマッチも見られたのだが、韓国学生選抜代表はなにぶん強かった。恐らく当時の森JAPANが10回戦って3回勝てればマシだと言うくらい強かった。もちろん当時「花郎(ファラン)」と呼ばれていた韓国国家代表はもっと圧倒的に強かった。高麗大学対早稲田の定期戦も西が丘に観に行ったが、この時の高麗大も強かった。当時の早稲田には服部さんと言う屈強なセンターフォワードがいたが、この時は子ども扱いされていたのを筆者は記憶している。さて吉田靖氏のプレースタイルに話を戻そう。

 身長が174cm程度の氏であったが、関東のリーグでは「ヘディンガー」と呼ばれ敵DFから恐れられていた。実際見事なヘディングで春季対抗戦では得点を重ねていたと思う。日頃の鍛錬から得た抜群の身体能力で、リーグの屈強DF陣を出し抜く様は見ていて痛快であった。得点にこそならなかったが、秋のリーグ戦日体大戦でゴールネットを揺らしたヘディングは迫力満点だった。がらがらの西が丘が更に一瞬静寂に包まれるほどサッカー通を唸らせるヘディングなのだった。
 こう書くとゴリゴリタイプのプレーヤーのように感じられるが、氏の真骨頂は右サイドを駆け上がっていく様である。11秒前半の俊足を生かし、ああまでセオリー通りに突破しセンタリングを重ねるウイングは当時の日本リーグを探しても希少な存在であった。足技にも優れ、当時完全なるマンツーマンディフェンスである中を、小刻みなステッピングワークでボールキープして見せたりもした。ドリブルはアウトサイドで押し出し、インサイドで切り返す吸い付くドリブルが印象的だった。また研究熱心さでは他の学生プレーヤーの追随を許さない存在であったと言えよう。

 氏が、当時アマチュアリズムを提唱して懲りない岡野俊一郎氏を批判していたのを思い出す。
 その議論は確かこんな話から始まったのだと記憶している。

 当時の代表選手が名誉こそ得られてもギャランティーは小遣い銭程度であり、経済的な意味で言えば「持ち出し」レベルの手弁当で戦っていた。それがゆえ代表を辞退する選手も数多く存在し、代表は決して日本で最良のメンバーで組まれていたものではない。その原因を作っていたのがアマチュアリズムの権化岡野俊一郎氏であり、岡野氏が協会の要職にあるうちは日本は強くなれないだろう と氏はこぼすように語っていたのである。

 吉田靖氏が監督を務める現ユース代表選手の多くはProfessionalである。氏も同じようにアジアユースで戦ったが、ステートアマや年齢を少なめに鯖読みして出場してくるアジア勢にすら歯が立たなかった。
 
 いま吉田靖氏の周辺からサッカー界を見てみると、色々なことが着々と実現されてきたと感じられる。
 人の考え方が変化するのは当然であるが、骨子・中身を支えて来たのは当時辛酸を舐めていた氏の世代であるかも知れない。氏とチームメイトであった関塚隆氏含め、現在爆発中だ。

 来年カナダに行こうか。きっと気候は爽やかでいい具合だろう。
 

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2006年7月17日 (月)

中田の引退特番を見て

中田のことを叩く典型的日本人とか、礼賛する欧米型日本人とか・・・不毛だよね。日本の代表なんだから。サッカーって何気ない仕草や試合展開の中でのメンタリティーはその民族性が際立って色濃く出るもの。連続的即興性のスポーツだから。考えて立ち止まるゆとりはないから「日本人らしさ」は消せないし否定できるものでもない。「メンバーの日本人らしさ」でチームが成功する方向性を中田も模索すべきだった。
 番組見ての感想は、ああ言う演出だから仕方ないがちょっと多弁に過ぎる。「敗軍の将、多くを語らず」は欧米の騎士道にも日本の武士道にも共通するものだと思う。中田がチームの中心、将であったと言う自負があるのならあんな番組出るべきではなかった。最後までプレゼン上手、ビジネス上手だったな。日本の中だけでは。
 クライフを悪く言うチームメイトっているのか?ってことだよね。クライフは新しい価値観をサッカーに持ち込んで、それは消え去ることない功績となっている。チームメイト達は同じ時期に、幸運にも同じフィールドで過ごす事ができて、自分にとって申し分ない実績を残すことができた。そんなクライフを悪く言うわけがない。だって幸せなんだから。扱いはクライフには及ばないが、その頃一緒だった選手は今でもクライフとともに語られる。
 中田は少なくとも日本代表に幸せをもたらさなかった。それだけは確かだろう。

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2006年7月13日 (木)

サッカーと人種差別  世界を知らず 人間を知らず サッカーを知らず

 7月10日のエントリー ジダンの最後 あまりにも悲しいを書いた後、少しずつ真相が明らかになって来た。多くの、世の中を知る、サッカーを知る人々からは早くから人種差別の問題と語られていたようだ。

 筆者が6月28日のエントリー 自由の国 フランスの勝利で書いた、かつてのフランスチームでの出来事が、解決済みの出来事が、他国では根強くあったと言うことだ。

 そのような思想の選手が優勝国にいる事はFIFAの後退を物語っていた。
 ブラッターの狼狽振りが情けない。


 筆者はサッカーが好きで、今まで様々なことを熱心に見聞してきた。
 
 数日間、日本のネット上で様々な取るに足らない「ジダン退場」に関する議論がされていた。

 大概が本当にレベルが低い、議論だった。

 筆者は思う。

 なぜジダンのプレーを見て、彼の正当性に即刻気づくことができないのだろうかと。
  

 そう言うサッカーを取り巻く色々の事情をもっと知るべきだろう。

 大会のはじめにジダンが行った行為、代表に復帰して最後に伝えたかったことの数々。
 そしてジダンほどの選手が行為に及んだことの意味を。

 
 ルールを犯したほうが悪いと、心から思う日本人が多いのなら悲しい。
 
 堀江も村上も同じような思想信条で喝采を浴び、退場させられたんだ。


 ルールを破り、ジダンは退場になったが、
空前の世界スポーツであるサッカーの中で、

 自由・平等・博愛はその上にあるものだ。

 日本人の狭量な了見で語られるべきものではない。
 

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2006年7月10日 (月)

ジダンの最後 あまりにも悲しい

 現行のルールでペナルティーキック戦があるのから
なんともコメントしようがないが、やはり決勝戦くらいは
引き分け再試合でやって欲しいなと思う。

 ジダンはなにか人種差別的な発言でも受けたのだろうか?
 試合展開でイラついたとか、そう言うのではないと思う。

 イタリアもいい試合をしたけど。

 これでジダンが最後なのは本当に悲しい

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リベリーは、闘将ジレスの化身なのか

 いよいよ決勝なのだが、ココログは相変わらず管理画面へのアクセスすら適わぬほど重い。

 死ぬほど重い。

 流血でお騒がせ、北フランス随一の貧民街出身、レジスタンス映画の渋い脇役みたいな面相。

 今大会は最もフランス人プレーヤーらしいリベリーに尽きる。

 リベリー レアル・マドリーからの誘いを蹴って、

 フランスで輝き続けて欲しいな。

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2006年7月 5日 (水)

PK戦狙いのドイツを、イタリアが撃破

 ドイツの試合運びはいつも通りで変化がなく、最後までペナルティキック戦以外での勝利を望むイタリアに、
正確無比なシュートを最後は決められ惨めな敗戦だった。決勝点となる一点目のゴールでのペナルティエリア、あれだけの密集でドイツ選手はペナルティキック戦の夢を見ていたのか全くの棒立ち状態だった。
 

 筆者はドイツのようなチームが勝ち抜くなら、もう一度48時間後に再試合のルールを再適用するべきだと考えていた。

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2006年7月 4日 (火)

オランダサッカーに出会った日(2)

 クーバーさんは「パーソナリティー」という、当時のサッカー界では極めて斬新な表現を使ってテクニックを表現していた。

 配布された冊子の中にも「世界のパーソナリティー」と言う文言が有り、サッカーでいかにパーソナリティーが重要なことなのか解説していたのである。以下

 『個性的なテクニックをもち、創造性に富んだサッカーをする選手が姿を消した結果、「トップレベルのプロの試合を 見ても、ボールキープしていて、敵に囲まれると、どうしようもなくなる選手がほとんどである。攻撃的なテクニックを 身につけないでいるので、相手をかわして、プレーのできるスペースを作り出すすべが、ないからである。」ことを嘆く 著者は、現在のコーチが体力トレーニングと体力にまかせての守備的戦術をとっていることを批判している。そして、 「いまのサッカー選手たちの技術(スキル)は限られている。その一方で、体力と体格はどんどん良くなっている。 大部分の選手たちは、90分間動き続けて、直接マークしている相手に仕事をさせない、というだけの能力で 評価されている。 こういう選手たちにとって、本当に必要なのは、技術トレーニングである。つまり、 自分がボールを得たとき、相手にきびしくマークされても、お手上げにならないように、そして仕方なく 近くにいる味方にパスしてしまうことのないように(パスをもらった選手も同じように、どうしようもないのだ) 、自分自身で何かができる能力を身につけさせることである。」と述べている。』

 どうにもドイツサッカー流が蔓延して垂れ流されていた状況の日本で、「パーソナリティー」と言う響きは多感な筆者の胸にも響いたものだった。当時何かと言えばやれ「組織プレー」だの「フォーメーションプレー」だなどと称して酷く緩慢な練習が流行っており、何の疑いも無くどの選手も取り組んでいた。
 何かと言えば「ゲルマン魂」という曖昧な表現を使っていたけれど、当時のドイツチーム(西)の主流はいかに屈強なメンバーを揃えて押し込みサッカーをするかに尽きており、シュワイゼンベックだとかブリーゲルなど訳の分からない選手がそこいらじゅう闊歩していた。シュスターと言う素晴らしい才能は花開かず、その悪循環は今も続いていると言って過言ではない。

 二宮寛や岡野俊一郎などという人々は、純血日本人が50年経っても手に入れることが出来ないフィジカルを無視して奥寺をドイツへ送り込んだ。たまたま日本人離れした屈強さを奥寺が保持していて、まずまずの成功を収めたのを良いことに増々ドイツ流を推し進めるのだった。

 なんと言うか、松浦や前田秀樹などと言うボール扱いも不自由な選手が主力を張っていて、読売の中では肉体派の松木のとっつぁんが代表に入るとテクニシャンに見えたから不思議だった。

 オフトが監督に就任するまで、ドイツサッカーの真似事にピリオドを打つまで日本サッカーに明るい未来は見えなかったのである。

                                               つづく

 有名なサッカー選手が引退しても、日本のサッカーは続いて行く。
 中田は高卒直後からプロ生活を全うできて幸せなサッカー人生だったでしょう。
 

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2006年7月 3日 (月)

オランダサッカーに出会った日(1)

 タイトルからしてオールドな話題が始まりそうですがその通りで。

 デッドマール・クラマーが東京五輪の特別コーチとして招聘された後メキシコまで、そしてメキシコ以降さしたる実績も無いまま日本サッカーは妄信的にクラマーを神として崇め奉った。

 特に岡野俊一郎と長沼専務理事の入れ込みようは半端じゃなく、教育読本には必ずクラマーの短パン姿が躍っていた。つまり協会サッカーは三菱ダイヤモンドサッカーからしてブンデスリーガを頻繁に流すように差し向け、80年代まで多くのコーチや選手を送ったことからも明白なように「ドイツサッカー」に毒されていたのだった。

 そんな状況に当時XEROXスーパーサッカーと共に貴重な国際経験の場を代表に提供していたKIRINが一石を投じた。一説には古河閥の川淵が絡んでいたとの情報もあった。今でこそあんなだが、当時信用薄かったテクニシャンタイプの選手を82年スペインの予選で香港ガバメントスタジアムに登場させたのは川淵だった。
 金田・横山・木村・戸塚などなどの選手に脚光を浴びせた。

 実は新興派や実力派チームはドイツ妄信から解き放たれて、新たにオランダ流サッカーをいち早く取り入れようとしていた。ヤマハはヨハン・マリウス・オフトをコーチとして81年から招き低迷から脱出。自由奔放なサッカーのさきがけ、読売クラブはフラン・ファン・バルコムヘッドコーチを70年代から早くも起用していたのである。

 そのバルコム氏の協力の下、晴れてキリンサッカークリニックは84年の三月東京国立西が丘サッカー場で開催されたのだ。

 講師は後に、日本のサッカー教育者に多くの影響をもたらすクーバーメソッドのウィル・クーバー。

 筆者は当時東京の高校生で春休み中だった。

 指導者対象のクリニックだったが幸運にも何故かそこに筆者は居た。ずうずうしく潜り込んだのだが、今となっては貴重な体験だったと述懐する。
 

 当時の筆者はカテゴライズされたサッカーに興味は無かったが、クーバー氏がいかに凄い指導者であることは新聞の記事で後日知ったのだった。西が丘でのクリニック後、池袋の西武スポーツ館野外広場での帝京サッカー部向きの指導も見に行ったりした。今考えると、当時は本当に世界のサッカー情報が貧弱でそれだけ貪欲だった。

 83年にケビン・キーガンがニューキャッスル・Uに移籍し(当時チャンピオンシップ・二部リーグ)、KIRINがジャパンカップと称して開催していた大会に招いた関係で、クリニックの冊子表紙は黄色いユニフォームを着たキーガンだった。

 だから筆者はクーバー氏をイギリス人だと思い込んでいた。

 クリニックに現れたクーバー氏は、しかし、おじいちゃんであった。

 こんなおじいちゃんにボール蹴れるのか?と馬鹿にしていた。

 出たちは紺色か黒か記憶は定かでないが、オールド風のジャージ上下。
 足元はパトリックの非常に良質なカーフ皮革を用いたアップシューズ&素足。
 はっきり言ってお洒落だった。しかし見掛け倒しだろうと単純に思っていた・・・・

 最初適当に高校のサッカー部で監督をしているおっちゃんと組まされ、対面で蹴りあった。
 当時の筆者は現役だったから、知らない高校のサッカー部の先生の足前は物足りなく、先生がミスをしたりすると、わざとボールを後逸したりしてふて腐れていたりしていた。

 少しの時間の後、クーバーさんの実演?実技が始まった。
 いわゆるクーバー流ボールコントロールと言う奴だ。

 始まってすぐに筆者は驚いた。

 年齢からしても信じられないほど俊敏に動いていたからだ。いやそれよりむしろ驚いたのは、その
緩急をつけたドリブルのステッピングワークが絶妙だった。

 いろいろクーバーメソッドについて後から他の人の解説を読むと、足技重視みたいな書き方をされているが、実は違う。クーバーさんの真髄は、緩急とボールコントール時における上半身の使い方だと思う。
 またヘディングの教え方も独特だった。いきなりDF役を付けて、競らせながらヘディングをさせる。
 
 クーバーさんも疲れたのか、当時早稲田の宮本征勝監督が派遣したコーチが実演をしてくれた。
 少し頭が禿げ上がって(失礼)年齢不詳だったが、クーバーさんの指示を忠実に再現する様は
アマチュアでトップレベルにあった選手のそれだった。

 帝京の古沼先生も自転車で来ていたが、遠くから見ていてOBのコーチにやらせていた。
 あと他の先生たちはお世辞にも満足なボールコントロールが出来ないようなレベルだった。
 それを考えれば当時の筆者の先生は国体プレーヤー上がりだったのでなんぼかマシだったのだろう。

 クーバーさんの主張は、

 オランダではプレッシングを早くにエッセンスとして取り入れたが、プレッシングを受けるのは、その選手にテクニックが不足しているからだ 

 ということだった。


 状況に応じたワンタッチプレーなどを指導者陣がミスすると、厳しく叱っていた。

                                                  準決勝まで 2へつづく

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2006年6月29日 (木)

オシムの代表選出構想、中心はルマン松井

 Daisuke


 【グラーツ(オーストリア)28日=須田雅弘、円賀貴子通信員】次期日本代表監督への就任が決定的なイビチャ・オシム氏(65)が、サンケイスポーツに新生ジャパン構想を激白。中盤の軸としてドイツW杯メンバーから落選したMF松井大輔(25)に期待をかけていることを明かした。フランスリーグ・ルマンで活躍する世界基準の逸材は4年後の南アフリカW杯では絶頂期の29歳で、MF中田英寿や中村俊輔に代わりキングに君臨する可能性も十分。オシム魔術の切り札は『世界のMATSUI』だ。

 筆者もドイツ大会での活躍を期待していたが、選出かなわず涙を呑んだ松井。
 オシムから相応な評価を得ていることを知り溜飲をさげたファンも多いことだろう。

 彼のような選手を選ばないコーチは本当にどうかしている。
 彼を中心選手に据えて戦って試す価値をジッコは放棄して敗戦した。

 何度も言うがオシムはサッカーを知っている男だ。
 

 サッカーの持つ魔力と松井が織り成すファンタジーに魅せられない男は
サッカーが本当に好きな奴とは到底思えない。


 ■松井大輔(まつい・だいすけ)
1981(昭和56)年5月11日、京都府生まれ、25歳。鹿児島実高3年時に高校選手権準優勝。00年京都に入団し優秀新人賞獲得。04年8月にルマン(当時2部)に移籍し1部昇格に貢献。A代表デビューは03年6月のコンフェデ杯・コロンビア戦。J1通算72試合7得点。フランス1部通算33試合3得点。A代表通算4試合1得点。1メートル75、64キロ。


  今シーズン、フランスリーグ1(アン)38試合中33試合に出場。

 この辺りの今シーズン実績が中田や半病人の高原・稲本とは違う。

 20代半ばで大会を経験できなかったのは本当に残念だった。

 

 
 昔から、岡野俊一郎、長沼専務理事の時代からそうだが協会は選手の芽をつぶしてしまう。

 筆者もそう思うが、現在ユース代表監督の吉田靖氏が早大生の頃同じように
嘆いていたのを忘れることが出来ない。

 松井大輔 待望だった日本の宝石を応援していこう。

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2006年6月28日 (水)

フィジカル強化はジーコも通ってきた道

 Zico

 ジッコが退任会見で言及していたことは、選手個々の「体力不足」と言うこと。前出のエントリー通りだ。

 筆者が今よりサッカー好きだった25年ほど前の「サッカーダイジェスト」誌にあった記事を思い出していた。
 
 ジッコは、ジュベニールかジュニオールの時代からか忘れてしまったが、10代の早い時期から
フラメンゴ一筋で過ごし、キャリアの後期でセリエAの中堅ウディネーゼに請われて移籍した。

 フラメンゴ時代の少年期は、ジッコの愛称からも分かるように、彼自身才能の塊ではあったが
いかんせん「痩せっぽちのへなちょこ野郎」。

 そうした磨かれざる宝石の時代、
フラメンゴでプロフェッショナルのキャリアをスタートをするまでジッコはスポーツ医学の粋を集めた
人造人間工場に入れられた。

 来る日も来る日もフィジカルトレーニングに明け暮れたのだと言う。
 彼の生活は全てがフラメンゴ負担だったから、当然に強制的労苦の側面もあったと推察できる。
 
 
 ブラジルは中盤より前目のプレーヤーの華麗なテクニックばかりが語られるが、実はそれほどの攻撃陣を防御する技術と屈強な体力を保持したブラジル人DFも素晴らしいプレーヤーが数多いのは自然の摂理だ。
 

 実は華麗な攻撃陣と裏腹に、南米のディフェンダーはゴリゴリのヘディンガーやボディアタッカーが多い。

 日産に在籍したオスカールは、彼たった一人の頭脳とフィジカルで日産ディフェンスを完璧にしていた。印象すら抱かせる。

 
 その彼らを吹き飛ばすほどの「フィジカル」をジッコは少年期に着々身に着けていた。
 と同時に、柔らかさやしなやかさと言うブラジル人特有のテクニックを喪失しなかった点が、このトレーニングの日々の過酷さを物語っているように思う。

 カズは「痩せっぽち」の時代はステップも軽やかに左サイドを駆け抜けたが、セリエAジェノバでの体験が響いたのか、トレーニングに励む余り軽さが徐々に失われていった。彼自身の向上心が結果的に特徴を損なうなんて皮肉で切ない話だ。

  会見で、直接の体験者であるジッコが言う「フィジカルの大切さ」は胸にしみる。
  
 
 ブラジルから、ジェンティーレやタルデリに代表されるハードマーカー揃いのセリエに渡った時も少年期の日々が糧になり、かのリーグで慣れるのにも大した時間を要さなかった現実もある。

 ジッコが個々の事例に言及しなかったのは、「可能性の喪失」を語りたく無かったのだと思う。

 プロフェッショナルフットボーラーとはなんなのか?
 
 少年がどの時点でプロと遊びとの区別をつける必要性があるのか?


 解任会見はJFAトレセンに集う指導者への重要な問いかけだった。

 15年も日本に貢献したジッコだから、本当は「可能性の喪失」にも少しは触れて良かったと思うが。

 

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