2007年11月27日 (火)

新聞を読む人がとても気になる

 朝、通勤時の電車の中の風景。
 どこからともなくまた、聞こえてくる。
 がさがさ、がさつそうな音。

 こいつら本当にうるせーなぁと、
筆者はこめかみのあたりをひくひく
させてたりすることも。
 グリーン車の中なら尚更響き渡る。
 
 新聞を読む男。
 バイアスのかかった、
二番絞り、三番絞りの情報を読む。

 広告には、その新聞を読めば
デキル人になれるとか、
育ちが違うんだとか色々。
 罪なコピーだよなと、端的に感じてしまう。
 でもリテラシー無視の道化コピーだよなと、
新聞社の中の人のセンスもうちわもない
思想にしばしば呆れてしまう。
 

 読者層は勘違いしているのか、
周りが静けさを取り戻した車内で、
またがさがさ、やっている。
 それで誰かを出し抜いた気でいるなら、
読者数から言っても通勤電車№1なのだから、
なんにもならない。

 紙の媒体ってどうなんだろうかと。
 特に、新聞のように1日で価値を
失うようなものって。
 もう栄光の時代は過ぎている。 

 本当は新聞に書いてあることは、
固有の業界では既に常識になっているような
ことが殆どで、確定させるツールだったり、
権威付けに用いられたりもする。
 とりあえずマスコミ発表したから、
話が消えることもないだろうとかうんぬんかんぬん・・・

 この間は、社主が新自由主義の権化だからか、
小沢さんを貶めるために好き勝手に嘘八百を
並べたてていた新聞社もあった。
 広告収入が生命線で、読者の事を何とも思わない、
その新聞社の思想が明白になっただけだ。 

 そんなものを、朝の静かな通勤電車の中で、
がさがさ読みに行くわけだ。

 一回、耳の具合が悪くなってからと言うもの
余計にノイズに対して敏感になってしまった。
 ノイズや匂い。

 
 それを差し引いても、新聞を折り込んだり
めくったりする音は、合成音となって
不快に車内に響き渡る。
 
 それはでも何故だか正義の風景らしいから、
誰も咎めようとはしないし、
女性が一張羅のシルクのブラウスに、
インクでもって印字されちゃっても、
新聞を読む男はどこ吹く風、
女性は鏡のあるどこかや同僚に、
奇妙な明朝体印字の模様を指摘されて
ようやく気づくことになったりする。
 不幸だ。残酷物語。

 新聞に何が書いてあるか。
 安心 没個性 一括りの階層主義
 目標や尊敬にもされそうにない道徳心。

 ひとりでも新聞を読まない人が
増えたらいい。
 少しだけ電車の中もすっきりする。

 また半年余り、電車通勤生活とも
さらばだ。ユダヤだとシャローム。

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2006年9月 7日 (木)

「8月15日に北京にいました」のコメントへのお返事のコメント欄への返事


 :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::引用以下

2006年9月5日
靖国参拝の問題を賠償問題にすり替え、もう充分に償いをしたと主張したい気持ちは分からないでもないが、ここは靖国参拝に関するコラムについてのコメント欄なのであまりしつこく論点外しをやるとみっともないのでやめた方がよい。このような人物は先の大戦は日本の侵略戦争などではないので、そもそも戦争責任を認めるなどという発想が無い方だと思う。仰るとおり日本は言論の自由、思想の自由を認められている国であるからそれは一向に構わない話しだが、ならばもう少しはっきりと自己主張された方が良いのではないか。どうも参拝賛成論者は主張や思想の本質がハッキリしない。このような方々は、意に反して分祀が実現してしまった時に、どこに参拝に行くのかということをハッキリと述べられたら良い。分祀後も戦没者だけではなく戦争指導者も等しく参拝するのかどうか、ここではっきりと表明されたらどうか。これは仮定の話などではなく、あくまで思想の問題であるから、前述したように日本は思想の自由を保証されているので、臆することなく明示されたらよい。それをやらないといつまで経っても論点のすり替えに終始することになり、説得力が無いのである。

::::::::::::::::::::::::::::::::::引用終わり

「根拠なき矜持殿」

 いやあのですね、下の方でさるお方が「ドイツの戦後補償を日本のガイドラインに!」のような、もう滅亡した「韓国大統領・朝日新聞の論調」と似たようなコメントが有ったので事実を述べただけですよ。どちらが論点のすり替えを行っているのか、コメントを時間軸ごとに追っていけば明白なんですが?一度下の方から全てのコメントに目を通されてみてはいかがでしょうか?主義主張の話ですが、多くの日本人にとって、東京裁判でA級戦犯とされた方々が合祀だろうが概念としての分祀(本来分祀などと言う形容は神道にはない。マスコミの造語流布)であろうが興味などないのですよ。生きていく中で無関係な話ですからね。それをことさらに煽っているのが目ぼしい記事のないまたは書けない新聞社を筆頭とするマスコミ、そして政治の道具にこれから2,000年先もして行きたい中国共産党でしょう。生きて行けなくなるかも知れませんから。(苦笑)ここでの靖國コラムの発端となった部分のコメントを読めば、多くの多くのコメントが靖國神社や遊就館を「知りませんでした。」「行ったことがない」「今度行ってみようと思う」でした。元来生存欲求に合致しないものに興味を示さない、一般的日本人に符合します。そこが狙いと無知でイノセントな日本人に悪意の刷り込みを行う、中共・一部マスコミ。でも、そんな事は秋が深まるにつれ忘れ去られていく、消費されて行くんです・・・。日本人にとって神社そのものを「ネタ」にする中共・マスコミの姿勢は許容できるものではないと感じるだろうし、その間の歴史認識での差異や教育の違いで誤認された列記があるなら正すべきと感じるのが善良かつ恥を知る日本人のやりかたです。歴史認識の本質に比較したら「靖國問題」など本来はどうでもいいんです。刺身のつま程度の話です。靖國を本質的に語るなら「マッカーサーの戦後処理と天皇の戦争責任」を総括すべきですね。あなたが人のコメントに反応するのはいっこうに構わないが、時間軸を無視する姿勢や流れを読めないところは恥ずかしいのでコメントはやめた方がよい。また、靖國などマイナーでカルトな「ネタ扱いの記事」を軽薄のそしりから逃れる為、身勝手に靖國「問題」とした一部マスコミの姿勢は中共共々批判に晒されるべきだろう。

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::もう一編、秀逸な釣りコメントを紹介 引用以下

2006年9月4日
靖国問題で中国側がとる一番良い対応は「無視」することだと思います。現在の日本人(特に若者)は、頭が劣化していて物事を単純にしか議論できません。 "中国の反対を押し切って参拝するから偉い!" ということしか頭になく、そもそものあの戦争の問題点や小泉首相の詭弁についての議論は全くできないようです。 "靖国参拝を政治問題化しない"と言うが、そもそも政治問題化したのは小泉候補だったはずなのに全く批判がないのは不思議です。 中国側としてはこの問題は無視して、「日中友好」を唱えて日本から技術や資本を導入して、発展させて圧倒的な力の差ができてから、抗議して、日本が文句を言ってきたら戦争して東京を陥落させるのが一番良い方法と思います。今の日本人ならこの程度の単純な策略にも引っかかると思います。日本人としてはとても残念ですが。 第二次世界大戦での日本とドイツの差は首都を開城したのと陥落した点が大きいと思います。日本人はまだ懲りていないということです。反中国派の人たちは中国と戦争になった場合でも勝てると思っているのでしょうか?


::::::::::::引用終わり


なんて言おうか、下線が入ったところは釣りなんだろうけど・・・・・展開も無茶苦茶だし。
苦労しているのでしょうね きっと。

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2006年9月 1日 (金)

宋さんのところに濃い人発見!根拠のない矜持(きょうじ(笑))

 宋さんのところに濃い人がいて困っている。
 しかもこの人は前後のコメントの時間軸を見ないで自分の都合のいいように解釈しているのが痛ましい。
 松井やよりと言うカルトな人も似たような論理展開だったなぁ・・・・
 

 この人は「根拠のない矜持」と言うことばが痛く気に入ったのか、
若しくは生まれながらの身体的?人種的?劣等感にさいなまれているのか知らないがよく使うんだ。
 覚えたての言葉みたくね。

 日経ビジネスオンライン 「8月15日北京にいました」のコメントへのお返事 のコメントから引用

 :::::::::::::::::::::::引用以下
2006年8月29日
未だに靖国参拝を外圧でやめるのはけしからんという偏狭な視点でしかものを言えない御仁がおられるが、このような根拠不明の矜持を振りかざすことで論理のすり替えが成功すると思ったら大間違いだ。靖国参拝に反対するのはすでに外圧などではなく、内圧化している。実際に靖国神社を自分の目で見てくる日本人が増えれば、そうした傾向は更に強まるだろう。日本は中国や韓国の民度を云々言えるような国か、良く足下を見つめ直した方が良い。


 2006年8月30日
首相の靖国参拝に抗議している周辺国に対して内政干渉だと喚いている連中に、ドイツの戦後補償を論じても効果はない。吸血鬼に十字架やニンニクを見せるようなものだが、黙殺し逃げ回るのが落ちだ。耳をふさぎ壊れたレコードのように外圧反対と繰り返し始めるだろう。安部は自分の爺さんが戦犯であるから戦犯という概念自体認めていない。そういう人間が首相になるのである。日本の過去の過ちを帳消しにしようとする連中にとってはさぞかし心強い事だろう。

2006年9月1日
靖国参拝と戦後賠償の問題をすり替える議論に乗るつもりはないが、小泉は靖国問題を心の問題だと言っている。心の問題であれば自己の心の自由をひたすらに餓鬼のように求めるのではなく、日本の侵略によって被害を受けた国の人々の心を思いやるのが大人の思考ではないか。賠償と謝罪は充分に実行したと言いながら、一方で侵略戦争の指導者を参拝するという言動の矛盾、責任逃れの心理が垣間見えることに韓国や中国は憤っている。しかも一部の国民しか訪れておらず、靖国の実態を知らない日本人に対して日本の首相が「心の自由」というクリシェイな表現によってナショナリズムを煽るのは、まさに“無学層の人民向けに行うプロパガンダ”と同じではないか。また小泉の靖国参拝を評価するという世論調査もあくまで現政府が行った調査であり、大本営発表そのものである。現に参拝を評価しない、反対が多数を占める民間の世論調査はいくらでもある。しかしながら根拠のない矜持を振りかざすことでしか靖国参拝を肯定できない連中に、大本営発表を盾に横行闊歩されたのではたまったものではない。


2006年9月5日
靖国参拝の問題を賠償問題にすり替え、もう充分に償いをしたと主張したい気持ちは分からないでもないが、ここは靖国参拝に関するコラムについてのコメント欄なのであまりしつこく論点外しをやるとみっともないのでやめた方がよい。このような人物は先の大戦は日本の侵略戦争などではないので、そもそも戦争責任を認めるなどという発想が無い方だと思う。仰るとおり日本は言論の自由、思想の自由を認められている国であるからそれは一向に構わない話しだが、ならばもう少しはっきりと自己主張された方が良いのではないか。どうも参拝賛成論者は主張や思想の本質がハッキリしない。このような方々は、意に反して分祀が実現してしまった時に、どこに参拝に行くのかということをハッキリと述べられたら良い。分祀後も戦没者だけではなく戦争指導者も等しく参拝するのかどうか、ここではっきりと表明されたらどうか。これは仮定の話などではなく、あくまで思想の問題であるから、前述したように日本は思想の自由を保証されているので、臆することなく明示されたらよい。それをやらないといつまで経っても論点のすり替えに終始することになり、説得力が無いのである。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::引用終わり


 いやあのですね、下の方でブサヨの人が「ドイツの戦後補償を日本のガイドラインに」のような、韓国大統領・朝日新聞の論調と似たようなコメントが有ったので事実を述べただけですよ。どちらが論点のすり替えを行っているのか、コメントを時間軸ごとに追っていけば明白なんですが?

 根拠の無い矜持ってなんだろね。あまりよい言葉じゃないけど。なんかこうこの人の言葉には普段まっとうに働いて日本で社会貢献している人を貶める意図もあるようです。察するにアカ崩れか、新左翼もどきかはたまた社会化教諭の成れの果てのブサヨかって感じです。中国との話をしているのにいきなり韓国の国名が出てくるところから、ひょっとしたら在日韓国人3世とか、そんな特別な身分を保持している人かも知れない。いずれにしても筆者のような吹けば飛ぶよなサラリー風来人とは身分が違うようで、高みから発せられる矜持に富んだ言動がカコイイ。(笑)

 日本人を昔の通りの自信の無い無気力風に戻すのが意図でしょうか?あえて書かないけど、根拠などいくらでもある。根拠が無いとはいくらなんでも酷い話だ。

 どうしようもない要求や無理難題を押し付けてきたりする人に対し、よく「心は自由だから」と、うそぶく人がいる。
 実際問題、小泉首相はしてやったりなんじゃないか?それぐらいのゆとりは生きていく中で必要だろう。
 国民の殆どが無関心だった靖國への慰霊を盛んに煽ったのは古の影響力を失った、左側キャスターを擁したマスコミ陣営と、アジアと言えば中国と韓国しかないかのような錯誤で追求する中・韓両国。

 でも以後放置でって感じの議論の終わり方が、すでに前歯が無くてヨボヨボの爺さんである筑紫さんにお似合いだったなぁ。日本の新左翼もつくづく終わったなーーーと言う感想だけが残った2006年8月だった。秋ですね

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2005年12月26日 (月)

マンションを買うな でーくに建てさせろ

 昨晩、世間を騒擾せしめた建築物に関する耐震偽装事件のことについて「きっこの日記」の危うさや、日本のブログジャーナリズムの浅はかさを杞憂してエントリーしましたが、東大研究の大御所である先生も「きっこの日記」について取り上げていた。題して「ネットの日記が暴く耐震偽装問題の裏を読む」
 大御所先生がその内容について触れるには、「信じがたいほどに情報が豊かで」「終始この事件の展開をリードしてきた。」と賞賛しているように読み取れる。
 筆者が思うに「日記」に書いていることは長く業界にその身を置いている者にすればごくごく当たり前でありきたりの範疇のことしか触れていないことが読み取れ、「明日は我が身」と戦々恐々しているからその業界人から具合よく聴取できないか、開き直った業界人が側にいるかの聞き出す側の立場の違いではないだろうかと推測するに易い。「きっこの日記」グループの周辺人物は現業に近いものが居て、出し抜かれた大手マスメディアの周辺にはいかがわしい評論人はいても現場の事情に詳しいものはいなかった、と言うのが真実だろう。
 「きっこ」グループに今回の情報をもたらすものは鉄筋工あがりの人足出しかも知れないし、左官工くずれの共産党員かも知れない。いずれも現場での経験が豊富で業界事情に精通しているものなら知りうる情報の範囲だと言い切れる。いやむしろ昨今のような構造不況の時代であるからこそ「いつ飛ぶか分からない怪しい業者やいかがわしい元請の情報」を彼ら多層構造下位の現業者は知っておかねば死活問題になり、多少なりともRC構造のなんたるかを知っているものなら今回の事件現場での施工中を目撃したものなら即座に判断できる範囲の耐震偽装であったとこれも言い切れる。
 昨今のIT産業の隆盛で、「建設業界」は職人技などに代表される理解しにくくローテクでかつ外部のものには触れにくい、またはあえて知る必要のないもの、田中角栄以降もっともダーティーな業界であることなどが災いして市民からもっとも近くて遠い業界のひとつとなった。だからと言うのは言い訳に過ぎず、委員会で質問をする議員、マスコミ、事務屋あがりの構造屋代表、金儲けしか興味のないデベロッパーなどが集散して無意味な茶番を繰り返している。そこに外野の「日記」グループが登場して、勉強不足・経験に乏しいブロガーがしたり顔で語りあう構図が現況だろう。構造偽装とは異なるが、バブル絶頂期の頃から大いに構造を軽視してきたのが建築業界というよりゼネコン各社だ。ありとあらゆる国から外国人労働者を募り、特にRC構造の肝となる鉄筋工として働かせていた。柱や梁の圧接はベテランの職人に頼るも、いい加減な梁を組み、てきとうなスラブ、工期が間に合わないものは後施工アンカーを打ち込むか差し筋仕事。ゼネコンのこうした古くからある体質につけこんだのが発注者であるいかがわしい類のデベロッパーで、チェックをし統制を担う機関がまったくザルであったのだから恐れ入る。旧建設省や東京都建設局のOBが大挙として天下る企業だから、実態などなにもなくとも機能はする。多少の見落としは許される甘い甘い体質の企業群が構造屋の親玉だ。
 
 色々書いているが無意味だ。筆者はマンションの安全性に疑いこそあれ、進んで自ら買おうなどと思わない。  「ヒューザー」などと聞いたこともないデベロッパーから数千万の不動産を購入しようなどと思う人々が不思議だ。総括すれば、権利に甘んじ、法の上に胡坐をかくものは救われないと言うことだろう。「疑いを知らず」とは国が豊かに安定の一途をたどってきた証左である。大人が子供のままなのである。この日本は。
 
 東大研究の大御所先生が人気者ブロガーの論陣に割って入ってきたのは大いに笑わせて頂いた。
 このような人はいつか辱めをうけるであろう。また恥を知らない先生が一人逝った。
 (先生と呼ばれるほど馬鹿じゃなし)  

エントリーのタイトルは「東京へゆくな ふるさとをつくれ」のもじりだ
                                  つづく

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2005年6月 4日 (土)

筋違いなFlatとWeb(修正版)

 週末にかけて時事ネタをエントリーする前に、件のガ島こと藤代裕之氏より「藤代裕之 裸の駄々っ子」からにじみ出るものと言うエントリーがあり、それに対する「引き篭もり」の泣きながら書いたであろうと思われる「僕は、僕が」がやたらに多い藤代裕之さんへ贈るリアル。[燃えないブログの作り方]を、したたかな読者(笑)らしく「読み込んだ」(あほくさ)。
感想を述べるが、 もの凄い時間とパワーの無駄だと単に思った。
 ほんとうは感想はそれだけ。

 ネットの普及で、環境が整えば誰もが公に向けた批判者になりうる。歓迎すべき状況だ。しかし、結果「引き篭もり」エントリーからも筆者が感じたように、指摘や批判に長けたものばかりがもてはやされる。「高校生が喫茶店で駄弁る」ような風潮ばかりが目に付く。
 
 会社生活でもそうだが、「批判」は楽なのだ。回収が大儀なのだ。
 自らが社会的に失うべきものもない自称「真性引き篭もり」ならもっとも楽なモノが他者への遠慮ない「批判」だろう。
 
 ネットと言うものはと言わずもがなだが、ネットワークコミュニケーションにおけるツールであろう。

 それがなんたるかの定義はここでは触れない。

 批判・指摘から議論→PDCAとは言わないが、なにがしかのリザルトを原批判者が求めるのならば、最低限のエチケットやモラルは守られるのが当然の流れだ。(リアルならばなおさら)

 攻撃や人格批判、推測の域を出ない「行為の観察」を行ったうえでの嘲笑などを、コミュニケーションの相手側にそれのみ行えば、色よい返事が期待できないことなど当然に予測できることだが「真性引き篭もり」には理解できない。
  いい訳がましい、なにやら薄っぺらい涙目ウルルの「僕ちゃん」エントリーが生み出された訳だ。後付で。

 ガ島氏の苦難はそれだけに留まらず、
「ひきこ」周辺の双方向性コミュニケーション不能なコメント者からも、併せて批判に晒されたこと。

氏には「匿名掲示板とブログの違い」を説いてきた経緯があるから、この流れが甚だ遺憾であるのは当然のことだった。(つうかもっとガ島の文章嫁と)

 ブログとは、双方向性が他媒体との大きな差異と、筆者もおぼろげながら考えている。

 双方向性コミュニケーション不能者(名付けてブログED者)wからの問いかけにも、無理難題なコミュニケーションを求められるガ島氏も疲れ果てて当然だよと筆者は共闘せずにはいられない。(うーんマンダム) 

 誰もが簡単に批判者には成り得るが、  
 批判者に成るほど簡単に創造者にはなれない。
 
 これを「リアル」でも出来れば六本木三丁目の坂下にあるバー カスクでシングル5,000円の単樽ウイスキーをしこたま飲れるリアルセレブな筆者のようになれるのだ。ウソ(最近飲っていないが)

 会社(リアル生活)の中なら、「指摘」をした自らがスキームを構築して実行し、見届けまでして一つの仕事が完結する。
 これが出来ないようなら「不良債権社員」(笑)と呼ばれても仕方がないんじゃないかと。

 その観点からすると、ガ島氏も、「内部批判者」から新しい「value創造」を試みた。
 しかし、外形的に「単なる批判者」のまま前職を辞したことは紛れもない事実だ。
 
 この部分の批判・指摘については甘んじて受けるべきなんですよ。
 
 会社生活、経済活動の側面から切り取るなら「ひきこ」の批判・指摘はタダの言ったモノ勝ちの世界観と言うべきものではない。

 言ったモノ勝ちなどという価値は「リアル」社会に、もはや存在しない。

 例えればある批判を行って賛同的な主旨のコメントだけはもらえるが、それによって得られる物質的なものなど皆無に近い。
 終局的には批判対象であったものへの無償対応、争議に巻き込まれ、肉体的にも精神的にも社会的属性にも自身に不相応な対応を求められるだけだ。リアルでもブログでも美味くない。一見奔放であるからもてはやされるが、経済活動が伴わない「批判・指摘」は一過性にならざるを得ず、大した効力もないまま「消費」され終わっていくのです。夢見がちな思春期少年の涎のように。


 ユカタンメモと言うガ島氏批判のブログから引用(うひゃ)

 >その言論を取り巻く環境は考慮しない。
 >言論に対して観測不能な基準を持ち出すのは言論の信頼性を損なうからだ。
 >私は給料を貰っている人の言論が妥当であるとは考えない。
 >同様に引き篭もりの言論が妥当ではないとも考えない。

 引用ここまで(うひょ)

 と書いてあるのですが、筆者が遭難しかけたモルディブの海溝のように青い。(うほ)

 「リアル」に「言論の正当性」判断基準など、実はどこにも存在しない。

 「リアル」ではリリースする側の姿勢や背景、受け取る側の社会通念のみで、正当性は判断されている。
  終局的に、数こそ正義だ。そして誰もそれを否定できない。日本の仕組みだから。
 山奥に篭り、一切の経済活動を行わない者が優れた「言論者」と呼ばれることはなかった。
 人は評価をされ喜びを覚える。誰もその誘惑からは逃れようがない。

 山や引き篭もっていた部屋から、誰もが引っ張り出される。それこそが「リアル」だ。
 

 自らに賛同する者が新しい何かで、批判者が「リアル」に毒されたモノなどということなどない。
 

 属性や背景をまったく顧みず、全くの無情報で評価を行うことなど不可能だ。
 次エントリー「パターン認識」参照

  
 筆者は「単なる言論」なんてものはブルジョワなものが繰り出す遊戯だと考えている。
 結びはいつの世も言論にとどまらなかったから。

  

 「ホリエモンの売国愚挙の行為」賛同論者は若者と呼ばれる側に多かった。
 それは、
 言論にとどまらず、既存の価値観を破壊せしめんとする「実行力」(リアル)そのものに
価値を見出したからじゃなかったの?と筆者は問いたい。

 
  


  全てのものは当たり前のことになっていく過程で「終わっていく」
  

 
 匿名・実名の論議でも滲み出ていた風潮。

 匿名礼賛主義側にいるものは、「共産主義」「トロッキズム」の賛同周辺者には近しい感覚をもつものがあった。
 「都会風の立身出世主義」によってそのような主義主張はもはや中共にあってさえ風化しつつある。
 
 ネットで金儲けをしているものなら「匿名」に皆を押し込めていたほうが商売がしやすい。
 彼らからの匿名擁護は説得力が希薄だ。後期の毛。
 

 誰にだって「都会風の立身出世主義」を実現させる可能性は残されているのだ。「わたしが失った時、かれらは得る」のが戦後最大のムーブメントなのであって今もそれは終わりを知らない。自らが望まずに「匿名者」とされ秘匿された歴史そのもの、若しくは大陸に今も残存する価値観を筆者は望まない。

 匿名を礼賛し、その実そのもの自身が匿名媒体を活用して経済活動を行う事実を見過ごしてはならないのだ。


 色々読みにくいとかあったので、それなりに修正しました。律儀にね はは
 
 

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