2007年12月 6日 (木)

この道はいつか来た道 二度と通らぬ過去の道

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 今夜は帰りに1年に一回有るか無いかの
渋滞に巻き込まれました。
 静岡辺りで情報が入り、
鮎沢で鮎ちゃんコロッケを食べながら
時間潰してもダメ。
 写真は早くもストリートに
降りてきた新型のR。
 分かりにくいので、
モーターショーのNブース出口側アクセスで
ようやく写せた写真も一緒に。
(入り口側からだと無理そうなので機転を利かし)
 
 海老名で、無茶な幅寄せ&割り込みを繰り返す
トラックが、何の拍子か炎上です。
 右側1車線のみの走行です。

 ほんとうになんとかならないでしょうか。
 秦野中井の先から横浜町田手前のところまで
通過するのに二時間ちょい。

 こちらが140km/hで走行しているのに、
90km/hで追い越し車線に切り込んでくる
モラルもダンディズムもないトラックドライバーたち。
 そりゃ図体でかけりゃさ、本人の度胸と関係無しに
突っ込んでもいけるさ。大抵の普通車は待ちますから。
 大抵は・・・
 しかし、筆者は時々は絶対に絶対に譲らないので、
サイドミラーがアルミパネルにこすりそうになります。
 そこで片手ハンドルで、中指立てて、
横に並んだトラックに勢い良く向けます。(中指)
 なんと品性下劣。
 そうするとやはり車内での急激なアクションに
びっくりしたのか、銃でも向けられたかと
思ってトラックは側道にはみでんばかりに
離れていきます。
 Its killing daddy coolなのさ。
 人に殺意を抱かせるようなことを
するな、トラックドライバー。
 お前も仕事、こちとらも仕事。

 でも疲れるので、本当はそんなことは
したくありません。
 いやしかし、彼らに、男を張るんだ高倉健。
 そんな具合で唐獅子牡丹です。

 幸さん、幼少期のエピソードを披露。 手がとっても きれいです。

 このような手をした人に後ろ指
刺されないように、
至極まっとうな生き方をしていくつもりです。
 
 筆者のお稽古事エピソードは、また次回。

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2007年10月15日 (月)

唐のかしらに本多平八

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 三重県の中央部を基点に、出張してまいりました。

 帰ってきて、ゆっくりしたところで
内藤-亀田戦の録画を観たのですが、
まぁいろいろブログでも論戦になっているので
通り一遍等なところは
やめておいて個人的感想を。

 挑戦者は、18歳にしてはよくやったんだと思う。
 ただ、口だけだったのはとにかく格好が悪い。
 本人もそこのところが一番堪えたのだろう、と
想像に難くない。
 協栄陣営はむかしからそうだが、
割合伝統的に汚い。
 
 ただ、ボクシングの興行は総じて汚い。
 今までになく大きなお金が動いていたから、
亀田一家全般にこの上なく汚い雰囲気が
漂っても、いわばボクシングの伝統のような
気がしないでもない。

 角海老なんかのむかしは、
ソープのお姉さん方の控え室
付近で雑魚寝しているボクサーの
兄ちゃんなんかがいて、
いたたまれないんだか、
役得なんだか、とにかくそれが原因で
戦績はパッとしなかった、って
逸話が残っているほど。

 竹原なんかは、サンオキ(沖ジム)と言う
会社で自分が内装工事したアリーナで
世界戦を闘った経験があるくらい。

 それだけボクシング界は、
いまだに貧しいし、興行の類も
人を犬畜生のように戦わせるのだから、
奇麗事だけじゃ当然すまない訳だ。

 
 筆者も、流れそうなチケットを新宿の
やくざ屋さんからもらって、
何回か後楽園に行ったことがある。
 かれこれ20年ほど前の話だが、
日本Jフライ級の王座決定戦で、
その時にチャンピオンを奪取したのは、
釣り船屋の倅だったらしい。
 のちに「はじめの一歩」の
モデルだとかなんとか聞いて
ほーと思った記憶がある。
 ただ、軽量級はなんだか見ていて
迫力が無く、ライト級の8回戦で
闘った元ランカー九条実さんなどのほうが、
今でも時々思い出す。
 価格は、リングサイドで2万円以上した
のではないでしょうか。
 なんて言うか、人様の殴り合いだから、
当時からその値段は納得できた。
(流れそうなものなのでタダで観てましたが)

 なにが言いたいかってーと、
大して普段はボクシングなど
気にもしないくせに、小僧を叩くなってこと。
 マスコミからして、末梢的な批判はもう
よせば良いのになと。
 日本の、日本人の美学がどんどん
失われていく。
 村八分じゃなくて、いまは村全部だ。
 徹底的にいたぶるのは、それこそ
日本が欧米化している証左かも知れない。 

 見ている人には分かりきっているからこそ、
TBSは興行を失敗したし、
亀田一家が通常のルートで
興行にあがってくることも
もう無いのだから。

 あとは日本ボクシングコミッションの
裁定など、手続き上の問題次第でしょと。

 親父はちょっとでしゃばりすぎ。
 三谷大和さんの早稲田講堂での試合でも
親父が出てきて随分と興醒めしたな。
 ボクシングって、親父がどうとか
家族がどうとか、あまり関係ない土壌の
スポーツだと思っていたから。
 いやこれは、筆者が矢吹丈を好きだからか。

 だから亀田親父の出方も、
三谷大和さんの前例もまぁある訳だから、
追いかける側のTBSくんだりも
問題があるってことだよね。

 あと反則云々も顕在化した
投げ飛ばしは問題外だが、
サミングや頭突きなどは
よくある話。

 ちゃんと打ち合わせすれば、
回避できた裏の指示は、
亀田一家-TBSとも計算外かな。

 いちばん惨かったのは、
当日アナウンスしていた
東京放送の会社員の人。

 日常生活に支障があるような
仕事を選んだつもりでは
なかったろうに。
  
 

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2006年5月21日 (日)

悲しき街角 デル・シャノンとか

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ヘッドライン
<黒髪回帰>若い女性中心に チェ・ジウら影響か…老若逆転
 時代は黒髪の乙女!?――。印象が重々しいと茶髪に染めていた若い女性を中心に「黒髪回帰」が進んでいる。長い真っすぐな黒髪のチャン・ツィイーやチェ・ジウらアジアの女優や国内の若手タレントの影響のほか、「正統派」を強調することで、相手に好印象を与えたいう心理の表れとの見方もある。一方で、白髪が目立ち始めた年配の女性が茶髪に染める例が増え、「老若逆転現象」が起きている。【久野華代】(毎日新聞)

 なんて言うか、毎日新聞が書いているだけで政治臭がプンプン漂う。別に黒髪だったら日本人でもいるんじゃないか?彼女ら二人はアジアを代表する黒髪女優だとの印象はあるが、多分に役柄やシャンプーのCFからくるイメージの賜物なんじゃないのかよと思ってしまう。筆者はむかし、「髪を染めている」女性が嫌いだった。なんか不良っぽくて不潔だとさえ思っていた。最近は別に気にしない。似合えば別になんでも良いんじゃないの と。
 ただ手入れが悪くて、黒いとこと茶色のところが斑になっているのはちょっとなって感じる。あと日本人なのにエレン・バーキンみたく金髪に近いのに変えるのもどうかなって感じはする。メグ・ライアンくらいでやめておけばって。今、衛星で映画をやっている。スザンヌ・プレシェットが出てて凄い美人。ちょっと調べたらトロイ・ドナヒュー夫人だった。
 Seventy Seven Sunset Strip.♪♪とかSurfside6とかのテレビシリーズが懐かしい。これを真似て名作「俺たちは天使だ!」が構想されたような気がする。気がするだけ。

 ところで昨年の10月に画像のバイクを買った。なんでも良いから、伏せて乗れるのが欲しかった。フォーンフォーンフォフォーンとダブルをあててシフトダウンして様になるやつ。今年の上越高田は30年ぶりとかの大雪でバイクの保管には骨を折った。横浜の小さいながらもガレージ付の家を転勤で離れて、しょせんしがない会社借り上げのアパート住まい。雪に埋もれていくバイクを見ながら、心は安いオイルと全然防寒性能のないジャケットで走り回っていた16歳の少年のようになっていた。クルマは屋根があるからどうでもいいけど、バイクは剥き身で可愛そう。そんなSweet16の気持ちになっていた。

 山には雪がたくさん残っているものの、春にようやくなって来たので最近また走り出した。
 それでタイヤを交換しようと店を探したんだけど、こっちにはナップスも矢東タイヤもラフ&ロードも南海もない。全く購入の時には考えなかった整備環境のことがこっちでは痛いくらいに劣悪だった。仕方なくネットで購入した。IRCの安いやつ。それで多分近所のバイク屋に持ち込んで交換してもらうんだろうけど、なんか高いこと言われそうで怖い。こっちは全然暮らしやすくなんかないよ。物価も東京と大して変わらんし、むしろ客が少ないから飲み屋なんかタマーに行くとメインスポンサーに祭り上げられてべら棒にボラレたりするし・・・・・なんて言うか、パズルのピースが欠けた状態で見つからないからしょうがないって開き直っているって言えば分かりやすいだろうか?転勤は会社勤めしているので仕方がないけど、都会育ちなんで出来れば人口80万程度以上の地方都市がいいよなーーーと。転勤者ブログらしく締めくくるんだが。(いつからそんなカテゴリーに?)
  

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2005年6月 4日 (土)

一分間の積極的傾聴と無視

 エントリー名でもある一分間の積極的傾聴と無視とは筆者がANAさんの「ヒューマンエラー」セミナー(ANAさんでは航空機の運行に関わる業務について)の中で実体験した講座の一幕である。
 このセミナーでの内容について、JR西の教育改善と、ブロガーガ島氏に批判的なものとの相関性を強引に書き綴って行きたいと、いま考えた。。。

 まず
積極的傾聴
について得られる話し手側の心象

■楽しかった
■話がスムーズに進み一分間が短く感じられた
■興味、関心が持ってもらえ安心感があった
■しっかり伝えたいと言う気になった
■もっと話していたかった

 無視された

■不愉快だった
■反応がないので一分間が長く感じられた
■つらかった
■話す内容に自信がなくなる
■本当に聞いているのか疑問になる
■そのうちに話している内容が自分でも分らなくなった

 ひきつづき
 ザイアンス習熟性の法則

①人間は人間的つきあいの
 ない人間に対して攻撃的である。

②人はその人に会えば会うほど
 好きになる傾向がある。

③人はその人の人間的側面を
知った時に親しみを感じる。

 これを社員教育の場に置き換えると、傾聴とは社員の話に耳を傾ける教育教官であったり上司のこと。無視するとは、社員の声を聞き入れないワンマン社長であり教育担当の人事幹部だったりするわけです。ザイアンスの習熟性にJR西の教育姿勢を当てはめてみれば、教育教官や人事幹部、若しくはライン外の上司などと現場の社員間には埋めようのない隔たりや溝が存在したことは事実のようであり、さらに面識の少ないものから遠慮のない罵倒や、習熟性を度外視した「日勤教育」等と言う端的な糾弾にのみ力を注げば、社員側から積極的な改善など見られる訳などないのである。
 ガ島氏批判についての相関性についてははしたたかな読者(笑)の感性にお任せします。

 パターン認識とは

 過去の経験や知識によって、長期記憶に貯えられているパターンのことで、モノを見た時、そのパターンから瞬時に何であるか認識/判断できる機能。

 パターン認識における
コンピューターと人間の脳の違い

コンピューター

情報と認識能力→全ての情報が必要
問題解決とフレキシビリティー→なし
傾向と特徴→なし


人間の脳

情報と認識能力→不十分でも可
問題解決とフレキシビリティー→あり
傾向と特徴→自分の都合の良いように
        情報不足分を補い
        判断/認識する傾向が
        あり、時にはエラーになる
        可能性もある。


 パターン認識とは人間の誰しもが保持している人間の特性であるから、コンピューターのようにデジタルに解し社員へ啓発教育することなどは出来ない。ましてもその者がもつ背景を無視し、草むしりを行わせるなどは苦痛感や恐怖心のみを芽生えさせ、改善の糸口になろうはずもなく、JR西の泥沼と化した教育現場の一端を筆者も垣間見寒気を憶えた次第だ。パターン認識の肝とは、情報不足分を補う何かであり、多くの企業ではインフラ改善、設備投資を行って「見える化」に取り組んでいるのである。筆者はトヨタの「あんどん」をこのような手法で紹介するなら批判に値しないと考える。
 ガ島氏批判についても「パターン認識」のことを知っていたなら、批判する側が恥をかかなくても済んだのだが遅きに過ぎたようだ。ネットに、安易に転がっている情報だけを頼りに生きていくことは出来ない。自らを高めて、様々な科学的論拠に基づく教育を受けるようにしなければ先進を求めることなど望めないことなのだ。

 
 追記:
 筆者の運営スタンスですが、短文の「煽り」やなにかは全て削除します。捨てアドの投げやりなコメントもいりません。
 「論理破綻」だとか「文章が下手」と書かれても商売人ではない筆者に改善の余地はありません。以降放置でよろしくお願いします。ガ島氏じゃないが、「ブログと匿名掲示板」の違いを理解できない人をガ島氏のように律儀に「相手にする気」もないので。

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2005年5月22日 (日)

様式化がひととおり済んだあとの分解過程

 JR西日本における災害についての報道ももはや一段落したかのような風潮がある。いろいろの報道機関のスタンスも記事も一通り見聞したけれど、日本人は人の不幸が生来気になって仕方がないのである。気になると言うよりも好きなんだろう。不幸な境遇のものが好きなのである。義経が実兄の頼朝に弓を引いたら「判官びいき」は生まれただろうか。赤穂浪士が死の間際に自由への渇望を語っていたらどうだろうか?そのままの不幸であるから人々はその過程に熱狂するのである。義経が頼朝を倒し政権を確保しても、赤穂浪士が泉岳寺に向かった足のまま政変クーデターを試みてもこれほど長らく語れるようなものにはならなかっただろう。忠臣蔵は主君の無念の死と、浪士の本懐後の死があるから二重の不幸を日本人は楽しむのだ。宅間守による大阪池田小事件の犠牲者遺族だが、国への損害賠償請求の結審後ほどなくしてマスコミ周辺から遺族叩きが始まったのを記憶している方も多いだろう。今回の尼崎事件も少し様子見をしていたのだが、同じような流れになりつつあるようだ。「補償額はOOOだ」「これによって損害賠償保険の範囲では賄いきれない」・・・。結局はそこなのか?吐息とともにある方向へ向かいたどり着く。既存のメディアが情報を流し、ネットなどで議論がし尽くされる。裏ネタを扱うメディアの格好の餌食になる。徹頭徹尾不幸のままでなければ大衆は許してはくれない。今度は攻撃によって作為的な不幸者の生産が始まる。次の重大犯罪事件や事故が発生するまで繰り返し行われるが、飽くことなきメディアと、不幸者が生来好きな日本人によって終わりを知る事がない。
 お馴染の fromガ島通信 メディア崩壊の現場を歩く の中にもあるけれど、当初は義賊のような扱いだった某新聞社の記者も、結果的に報道の本質とはかけ離れた素行面によってとある筋から断罪されているのだ。やれやれと思うのだが、なにやら関西方面の方々は「糾弾沙汰」が好きなようだ。JR西の「日勤教育」だってその内容を見れば、まるで部落解放同盟の有効な闘争手段であった、若しくは今もそうである、「確認会」「糾弾会」に酷似している。歴史と文化の香り高い関西エリアは、人を制圧するテクニックを古くから代々受け継いでいるかのようだ。「いけにえ」を作るのが上手なのかと穿ちたいほど。
 人の不幸を、または巨悪なもの及びその周辺の当時関係者の現在やその後の動向をこれほどまでに「味わう」下劣な風潮が飛躍的に増大した地点だけれども、1871年(明治4年)明治維新政府が発した「解放令」まで遡るとするのは筆者のこじつけだろうか。「穢多非人等ノ稱被廢候條 自今身分職業共平民同様タルヘキ事」とあり、壬申戸籍でこのものは「新平民」と称された。この時代、新聞などの報道機関の発達と相まって元来平民身分とされたものは明らかに自らより劣るか不幸なものの対象を探し出す必要があった。長い間そのようなスケープゴートが身近にあったものから新国家が突然取り上げたとしても、その穴埋めが必要な作業になってくることは自明だ。結果そのもの達双方(国と、元来平民身分であったもの)からの要望によってか詳細は不明だが、維新以後不幸な記事ほど大きく取り上げる風潮が出来上がったかのようだ。壮烈な最期を遂げた兵士ならば人々はその不幸に歓喜し、国家はそれを「軍神」などと呼び習わせ『不幸のすすめ』を美化し説いたのである。これは太平洋戦争が終結するまで一度もリセットされることなく継続された来た。国家が連帯を形成する過程では必然的な報道姿勢が生まれる。連帯を維持する必要があるなら、うえのような傾向は強まっていくだけだ。中共の場合はそれが不幸なものか巨悪なものかの二つあり、必須なスケープゴートが日本ということなのだろう。
 ガ島さんの記事に、
 >他の社が扱わなくなれば、潮が引くように「撤収」。ニュースは消費され、終わっていくのです。

 とあるが、経済効率からもある程度これは仕方がないものだと筆者は感じている。
 問題は扱うものの中身なのだ。人々の印象に強く残るように、これでもかとレッテルを貼り、造語を流布せしめんとする無責任な風潮が問題視されなければいけない。
 太平洋戦争終結後、大衆は自らが「不幸」なのか「幸せ」なのか確認する術がないままひとしきり「平等」という曖昧な括りで社会生活を営んできた。確認が不確かであるから「総中流意識」と言う歪んだ風潮が闊歩していたけれど、いままた不況の中の不安な世相から割合はっきりと「幸か不幸」かの主観が生まれてきた。報道する側の姿勢もあると否定はしないが、スケープゴートが生まれやすく、また購読者や視聴者の側もそれを欲しているか望んでいるといったところだろう。メディアはスケープゴートを生み、または生まれる可能性のある報道についてじっくり検証を行い、無生産的な報道は控えるべきであろう。無生産的な報道とは例を挙げれば「堀江事件」を礼賛するかのような記事だ。日本人の経済活動者を無気力化するような記事を書いて愉悦に浸っているようでは当分批判は免れまい。
 
 ガ島通信の中で藤代氏が2ちゃんえる管理人を曰く「律儀な人」と書いているのが面白い。度重なる裁判沙汰の出廷拒否姿勢など見るにつけ決して「律儀な人」のようには思えないのだが。講演依頼を航空機搭乗手続き上の遅延を理由に断わるのではなく、一味違った手段で遅刻するも出席したことを「律儀な人」と言うのならば、藤代氏は筆者とは異なる「お伽の国」の人であり、前段の管理人を礼賛する姿勢を貫くなら、ある種の批判も甘んじて受けるべきだろう。「お伽の国」は筆者には関係が無くどうでもいいことなのだが。

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2005年5月15日 (日)

自動車絶望工場との再会

 トヨタの05年3月期連結決算(米国会計基準)は、当期利益が1兆1712億円、1兆円を突破した前期を0.8%上回り、過去最高益を更新した。このような見出しで華々しいメディアの恣意的な報道に世間はいっとき沸き返っていた。トヨタの純利益について考える時、筆者はある著書の存在をいつも思い出してしまう。
 

 10代の後半にはじめて読んだのと、最近恥ずかしながら読んだその続編
自動車絶望工場-ある季節工の手記

自動車王国の暗闇―その後の絶望工場
 
 鎌田慧氏の珠玉のルポと言ってさしつかえない名著は、その後のルポライター・ジャーナリストを目指すものにある指針と影響を与えた。露文卒の氏が、1973当時も日本のトップバリューであったトヨタの自動車工場に「業務請負」労働者、すなわち季節工として潜入しルポを迫真の筆致でつづった。
 いま読み返してみると、ルポでありながら非常に文学的であることなどが余計な情感を読むものに生ませる。正義感の強い若者には少々目の毒かも知れない。いま現実的に季節工側にいない自分にとって、ハイティーン時代の感情とのギャップに苦笑いしてしまう側面もある。
 筆者がこの著書と再会を果たした背景は複雑だ。
 鎌田慧氏を「部落解放同盟」の宣伝屋と断じたジャーナリスト寺園敦史氏の存在があった。寺園氏とは以前より筆者も直接メールのやり取りをしていた方で、はっきり言って盲目的にある時期応援していた。
 氏が「同和利権の真相3」で鎌田慧氏の「ドキュメント屠場(とじょう)岩波新書」
 「ドキュメント屠場(とじょう)岩波新書」 
 を取り上げており、この本を「部落解放同盟」の礼賛本ではあるまいかとの引用で前述の「絶望工場」が紹介されている。なんのことはない、寺園氏も真相3の中で「以前は鎌田氏の熱烈なファンであった」と告白しているのが興味深い。二年ほど前、この寺園氏の著述を読んだ時に「ああ 鎌田さんか」と懐かしく感じたのと時を同じくして過去最高の純利益がトヨタよりコメントされたのである。
 ものづくりの殆どの製造現場では派遣業務が適用されない機会が多かった。適法でもなかった。
 それがゆえ、ダイハツもトヨタも長い期間、その三割超の労働者を4-6ヶ月の季節工に頼ってきたのである。
 ロボットを使うよりも安かったし、地域の雇用確保の期待にも合致していた。長い間放置されてきた雇用実態でその現実は「自動車絶望工場」の頃と全体的な生活レベルの底上げに伴って比較は難しいが、情感的なしんぶん「赤旗」の風潮の言説を借りれば季節工労働者の精神的な苦痛レベルは当時と大差がないようだということらしい。赤旗
 2004年3月に法改正された「優先雇用制度」。「(ある企業が)ある業務に3年以上派遣を受け入れ、その業務に新たに労働者を雇い入れる場合、派遣先(ある企業)はその派遣スタッフに対して雇用の申し込みをしなければならない」という規定であるが、その後の富士通デバイス事件をきっかけとなって多くのものづくり企業が季節工や派遣労働形態の雇用から正社員登用の道筋をつくる流れができた。
 トヨタ本社では季節工自体の雇用を拒み、派遣労働へ改まったとも聞くが、末端とも底辺とも言える関連企業ではその実態は当てはまるのだろうかと疑問を投げかけたい。またこのような製造現場は労働安全の側面がコストカットともにないがしろにされがちで、効率重視や改善の名のもとに不安全なまま放置され、本来なら監督する立場の関係諸官庁(特に労基)は「大手企業陣」には緩手であると指摘されて久しい。JR西日本の事故について、国土交通省や厚生労働省の緩手が指摘され始めたのは遅きに過ぎたといえまいか。
 いずれにせよ筆者に取材力は無く、どなたかの情報をもとに批評するに徹してしまうが、上段にあるかのような筆者の言説を、効率を度外視した甘美で優美な指摘を「アカだ左翼だ」とする単純な発想はどうにかならないものだろうかと愚問を投げかけたい。
 それにしても と思う。「富の再分配」はすでに議論の余地はないものとなってしまったようだ。本来なら屈するものではない富の象徴や権力に、それを喧伝せしめるマスコミが色々の事情(広告料欲しさ?)で屈していけにえを次から次へと生み出し大衆に大量に差し出す。例えば事件事故の当時関係者が広告主なら控え目な報道になったり同情的な初期報道操作となったりそこかしこに経済第一主義が垣間見える。


 とりとめない文章になってしまったが、この純利益問題のことは注意深く見守って行きたいと考えています。

山岡俊介氏のブログ
 山岡俊介氏のブログでトヨタの奥田会長の発言が取り上げられている。
 ポストモダン・マーケティング
 ポストモダン・マーケティング―「顧客志向」は捨ててしまえ!で書かれていることに類似しており筆者は奥田さんの新し物好き、アンテナに感嘆しきりでした。しかしながら「ものづくり」をする側の方からの発言にしては少々いろいろの方面への配慮に欠けるのでは?との念も持たずにはいられません。
 つい先ごろも「ホリエモン事件」の際、その言説の変わりように批判が相次いだ事もありましたっけ。
 
  

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2005年5月 5日 (木)

あくなき内向的既存メディアの化物ども(黒姫)

 ガ島通信というブログを運営している地方紙元記者藤代裕之氏が 
http://nikkeibp.weblogs.jp/gato/2005/04/dokusya.html
日経BP社のとあるサイトで「メディア崩壊の現場を歩く」を、記事連載中である。

 この中での読者のコメントが興味深い。既存メディアの側にいるものからのコメントなのか、或いはまったく関係のない、筆者と同じような酔狂者が論陣を張っているのかを確認する術はないが、比喩表現について頓珍漢な反芻を行い、その読者自身と藤代氏の感性の違いを筆力落ちだなどと「ケチ」をつけている。明白なことは、あれが言い掛かりと呼ばれなければ一体なんなのだ。
 藤代氏のコメントや記事には、問題提起の際再三「たとえ話」が使われる。筆者にはよく分かる内容の比喩表現であり、この藤代氏は読者のイマジネーションやインテリジェンスにある程度の期待を抱きつつ記事にする手法を用いているようだ。期待を抱いてはいるが筆者が批判した高田記者のような「本質部分での居直り」は用いていない。
 上のリンク先の「誰のために書くのか。」は記者はいったい誰のため、なんのために記事を書いている、また書くべきかを藤代氏が問題提起している記事である。筆者も数点コメントを付けさせてもらったが、既存メディアの側にいるものの策略なのか、(表現は矛盾するが)反芻ばかりの一見口当たりのよいコメントを他の読者からは頂戴しているようだ。比較表現のテクニックなどこの記事の本質とは無関係に思えるが、本職らしきかたがたには看過できないということらしい。藤代氏流のナイーブさで直接的表現をあえて避けているように見えたが、読者からの辛辣な批評により「三菱自動車」「JR西日本」と二つの巨大な組織がコメント内に直接表された。藤代氏は当初「老舗和菓子屋」と例えて記事をリリースしたが、対立的批評コメントを書いている読者の人に「老舗」がこの記事のキーワードだと理解できている人は少ないようだと見て取れる。
 この二つの企業はいかなる分野においても他の企業の追随を許さない顔を持っている。企業の批判はなるべく避けて、事実関係を述べるにとどめたい。この二つの企業を藤代氏が表した理由は昨今事件や事故を発生させ社会騒擾の原因を作っているからに他ならないと感じるが、この二つの企業には「武家の商法からの再生」と言う符が伴うことも見過ごすことはできない。かつて後藤象二郎が官製類似で経営、武家の商法そのままに傲慢な振る舞いの結果で破綻の道を辿っていた後の三菱の基礎部分高島炭鉱を岩崎彌太郎が買い取り比類なき商才で再生させた事実は衆目の知る事といえよう。
 JR西日本といえば言わずもがなだが、旧国鉄の主に西日本エリアをケアする鉄道大動脈の盟主たる存在であったが、国家経営の判断で民営化となり、会社として経営の是非を問われる存在となったのだ。二社とも消費者、利用者の側からすれば、「売って遣わす、乗せて遣わす」から「ご利用ありがとうございます」と変わった訳だから、自分たちが少なくとも顧客判断の員数に加えられただけでも大きな変革だった。藤代氏が比較対象とした新聞やテレビはどうだろうか?の部分についてだが。異種の業界と比較すれば呆れるほど過当競争のない緩やかな変化をして来たに過ぎない。時折世間を騒がすは、経営陣の内ゲバが取り上げられたり、それによって社風が変わった(顧客サービスの部分と連動していないが)りとしたに留まる。ところでうえの二社だが、再生とは言ったものの事件や事故が起きた背景には、内部のものでもない限り事実関係をあらわす事は出来ないが、自工の親会社である(事実上同化しているが)三菱重工では船舶・兵器などの分野では相も変わらず「武家の商法」そのままの経営手法を踏襲出来る市場環境である現実や、JRについても同じくまだまだ内向的な「事なかれ主義」や「隠蔽体質」が企業内で充満しているのではとあちらこちらでよく耳にする内容の話がある。
 ここまでの前提を藤代氏が踏まえたかどうかは定かではないが、うえのサイトの記事中やコメント欄にある「和菓子屋比喩批判」や「社会的影響力を無視した、コメントの黙殺」などは例え藤代氏にかつて批判的なコメントをつけた筆者にも理解し難い部分である。なぜなら昨今ごく一般の企業であるなら異業種の事故や事件であってもそれがきっかけとなり、より一層のコンプライアンス整備にあたることや製造管理手法の見直しや強化にあたることは至極当然の成り行きだからでありその行為により新たな企業付加価値を生む良い機会とされるからである。異業種であるから、他所様の会社であるから無関係どころか、個別の企業で社会の一翼を担う意思があるからこそ見過ごすことなど到底出来ないことであり、我が事のように真摯に対応するのが企業の常で「三菱やJRの西日本の事故は個別の事象であって新聞社批判に馴染まない」とするは愚の骨頂以外のなにものでもないと感じるのは聡明な読者であるなら当然に感じる事ができることであろう。また記事のコメントで藤代氏が筑紫哲也氏の「ネット批判」を引用した事もそれが筑紫氏の社会的影響力や増してもテレビで発信されたコメントであったからに他ならず、「新聞界を代表するわけでもないひとりの老・元記者」と断じてしまうのは、これからも数年、ある層には影響力を行使するであろう氏の発言内容を問わず安寧とする安易さから発せられる言葉とは言えまいか。うえのコメント引用からも理解いただけるかと思うが、藤代氏や筆者が危惧していることは、コメントの裏にある(既存メディア側の人?)ものから見え隠れする社会性の欠如や日本社会の一員であることの意識欠如に他ならず、ましてそれが新聞記者であるなら、法的にも日刊新聞の影響力が認識され行使されている現実に背を向け、いわく「具体的事象」などと当該記事の本質から目を背けさせ説明のテクニックを指摘するはぐらかしを指摘するものである。
 また「読みたくないなら新聞読まなければいい」などは、新聞やテレビがもつ公共性をネットと同じとする誤認から来るものと思うが、商法改正後の日刊新聞とインターネットの広告への取り扱いひとつを見ても、新聞を第一のメディアとする国家の利用姿勢は当分は改まらないのだ。内閣や小泉首相ほどではないが、まだまだ新聞に与えられている責務や権限はネットを凌いでいると言って差し支えないだろう。
 新聞を読まない層が今後急速に増加する可能性は否定しないが、既読者層の膨大な数と比較して新読者層とされる年代の新聞離れがその比率を上回るのは幾年先の事なのだろう。このあいだ記事の有害・無害を問わず新聞はある権威と信用を伴いリリースされるのだから藤代氏の危機感を嘲笑するかのような姿勢は理解できない。まさに顧客無き垂れ流し、危機感などない「武家の商法」の権化とは言えまいか。

ありとある「具体的な事象の提示」は限りなく元職場への外部告発になる訳であり、そのようなあげへつらいが一ライターの藤代氏に許される行為なのだろうかと疑問を投げかけたい。読者のジレンマもこのあたりにあるようではと推察するが、アウトサイダー藤代氏の役割はまず自浄作用を促すことにつきる。
 筆者は既存メディアとも新メディア形態の業種のどちらにも属さない一大衆であるが、転じて「和菓子屋の危機は新聞屋の危機となんら関係がない」とする不感症の記者に幾ばくかの権威や信用を与えている現実にまずは怒りを覚える。

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2005年5月 2日 (月)

利用媒体とされたもの

 中国や韓国の事情についてもう少し書き記したい。企業間の摩擦でしばしば起こる特許侵害に関する訴訟。「付加価値」「巨万の富」について中韓両国が切っても切れない核心になって久しい。

「水道哲学」というものがある。昭和のいや後世にも未来永劫伝承されるべき名経営者が残したものだ。水道の水はタダだ。蛇口をひねれば出てくる。どの家庭にも必ずある。あらゆる物質を、この低廉で豊かな水のように社会に溢れさすのが社会の公器である会社の役割や・・・と綴られる。
時代は流れた。物質は世界中に溢れた。日本では高付加価値商品以外は文字通り価値のないものとしてその役割を終え、やがて発展途上の隣国での生産となり低価格帯のマーケットで売られるなどして新たな役割を生む連鎖が続いてきた。あるハードディスク用の冷却ファン。5年前まで中国で生産されていたものが、今やベトナム製となっていることに人件費の高騰に沸く中国の事情が垣間見える。人材のるつぼ中国は日本からの的確な指導に伴い当然に技術力をつけてきた。韓国も国の成立過程と形態こそ違えど、作るものの難易度を年々増し、技術立国としてアジアの中ではそれなりの地位を同じ事情の中で築きつつある。優れたものの真似をし、より優れたものをリリースする。どの国でも行為自体否定されることなく行われて来たものづくりの真実だ。しかし隣国の二国が誤っていた面は、真似をし、劣る物のリリースを繰り返す、  ことと、「国家」「会社」の概念を無視した利益侵害だったことなどが挙げられる。ものづくり伝授と時を同じくして行われていた「ある教育」の問題が、ここに来てようやく注視されるようになった。日本人はナイーブに過ぎた。特定政治家の利権拡大の暴走にメディア、官憲も手出しのしようがない構造は揺るぐことはなかった。対中・対韓のネゴシエーターたる公安の力は市民に予想できるものではなった。


米国流の暮らしやものづくりに傾倒し、ある一定の成功を日本は収めた後、より効率的なものづくりの探求と黎明分野では新技術の宝庫となるべく国家総動員でまい進してきた。自明と結果論。米国主導、米国に利益をもたらす形で。
同じように利用し授け、後年なんらかの摩擦を取り除き友好的な発展を互いが望んでいるとしたのは、日本人経営者と日本の甘美な錯覚だった。

 難しい論点だが、日本人には「利用の是非」を議論するほどのしたたかな風潮が決定的に欠如していた。権利は等しいとした憲法も説明不足のまま、一度も喝破されることなくここまでやってきた。隣国の誰もが「与しやすい」と気づき接してきたが、「利用することを潔しとしない」日本人の一番大切なモラルが障害となって議論が先送りとなって来たのが現況だと思う。


  ここまでが経済についてのことだが、侵害する側とされる中韓の姿勢が政経ともシンクロしている。
 受け手、守り手の日本は今のところ「利用してきた、していく、国」の術中にはまり同じようなスタンスでシンクロしてきた。が、経済活動者がどこまでも歴史認識の議論に挟まれる日本国家のスタンスに疑問を覚える。
 国益とは?

 日本の窮状に乗して利益を貪るもの。一市民であるものが、中国での経済活動を行う当事関係者だったらどう言うか?靖国問題について次回語ります。


 あと最近、ガ島通信さんとhttp://blog.livedoor.jp/zentoku2246/
 nikkei BP のhttp://nikkeibp.weblogs.jp/gato/2005/04/dokusya.htmlほうに
黒姫と言うブログネームで感想などを書いています。 

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2005年4月30日 (土)

蝶もトンボも鳥のうち

 谷川さんの詩ばかりじゃつまらないと言う方も多そうなので、溜まりに溜まった時事評をGW中に書き連ねたいと思います。

 


堀江貴文の事件

 


 

 この事件は、普段日本の行く末や国益のことなどを真摯に討論できる金儲けに疎い層には語るのも憚られる事件の類であったと思う。語ることによって喧伝になるのならそれは避けて過ごしていたい事件だった。テレビの報道は興味本位という範囲を出ない稚拙極まりないものばかりで、大体既存メディアを殺すと言ってお騒がせのものが連日既存メディアの信用を利用し登場する矛盾に気づくよりも先に、景気の良い浮世離れした金儲け話が大衆の感覚を麻痺させた。聞いたことのない暗号のような符号が大衆を虜にするのは時間の問題だった。彼らマスコミが優れているのは、50年語り部のスタンスに進歩がない割りに研究が進んでいる大衆心理を引き寄せる言葉の使用方法、意味のないものの羅列だった。冒頭に書いた金儲けに疎い層は、大体の熱気が醒めて「日本にとって良いことではないと語られる論調」が少しずつ場に出てきてようやくこの話題、事件を職場や私生活でも総括する気になったとかならなかったとか。
 朝日対正論産経の図式もあったとする恣意的な報道含めて、自分が思うに記者はなんでんかんでん書きゃいいってもんじゃねーだろ のような紙面や番組構成の無駄使いが目立った。特に今回は日本の国益とは真逆の王道を往くものどもの至極貧民的手法の銭ゲバを無駄に宣伝しすぎた感は否めまい。取材が安易で容易で、地下鉄に乗って15分の場所に蛆虫のようにたかる馬鹿者ども。民度が低いからしょうがないんだよ。都知事にそういわれて自分の胸につき刺さった記者もきっと沢山いるはずさ。


 


  中国や韓国の「反日」問題


 これは「振り返る」類の動作がインターネットの普及によって安易・容易になったと、まずは好事例だと受け止めるべき。おかしな風潮や論調。中国、韓国の政府・民衆はほぼ20年同じことを繰り返ししてきただけ。中韓のそれこそメディア・リテラシー(苦笑)を司る連中に、日本の若年層を中心とした「おかしな風潮や論調」が確実に届き、そしてその内容は彼ら監視側には都合の悪いものばかりだから、余計に「中国人、韓国人」こんだけ頑張ってまっせと対外に報道する必要ありと見て国際映像に連日自国の恥部を発信し続けた。と自分は仮説する。

 あとは時間的な問題が大きい。ここに来て日本側の主張の変節は両国には許しがたいものと見えて当然だ。正しければそれで良いと言う問題ではない。堀江も地裁の判事も正しかった。同じことを粛々と行うことの意義は国自体の変節を経験していない世代のほうが理解力があると考えて差し支えない。例えば三世代にわたり異国で外国籍のまま暮らすものどもにもその異常さを説き自浄が出来て当たり前だと思うのだが、時間的な問題つまり連続性ある権益構築の破壊は難しい。

 「既存メディア」と言われるものは、対抗手段として巨大化してきた歴史があるはずなのに、
今は権力の座への抵抗どころか権力に近寄って感覚麻痺を起こしているのがまずい。

 
 

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