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2007年9月30日 (日)

集団「自決」沖縄の歴史 苦しみ

 9月29日19時1分配信 時事通信

 沖縄戦での集団自決をめぐる教科書検定意見の撤回を求めた県民大会。会場となった宜野湾市海浜公園は29日、約10万人が炎天下の中、会場をびっしりと埋めた。約1万人は広場に入れないほど。「一行変われば歴史が変わる」「軍命あったのは確か」。参加者からは検定意見に対する批判の声が上がった。  那覇市の女子高校生(18)は友人と一緒に、同級生の母親の車で会場に来た。「一行変わるだけでも大きく歴史は変わる。真実を伝えていかないといけない」と話した。  会場近くに住む高校3年の女子生徒(18)は「本土の人は、沖縄は海がきれいで空が青いとしか思っていないかもしれない。沖縄戦があり戦後も問題がある。戦争は二度としてほしくない」と真剣なまなざしで訴えた。 
 上のデモについては、筆者は中立の立場を貫くものでもなし、関係当事者でもないから、沖縄の方々に同情的な眼差しを送らざるを得ない。  デモの発端になった出来事はかなり以前、平成17年5月、とある陣営(つくる会会長の拓殖大教授藤岡信勝の主宰)による聞き取り調査、平成17年の8月頃から裁判などで公になりつつあり、(集団「自決」を命令したとされる赤松大尉の実弟や梅沢裕元少佐が作家の大江健三郎などを相手に名誉毀損で提訴)元琉球政府職員で沖縄擁護局に勤務していた照屋昇雄氏などが、実名入りで「チャンネル桜」と言う映画プロデューサー水島聡陣営のインタビューに応じたりなど、話は急激に加速し始めた。その後、一定の通説を両面から見る形で、文部科学省の高校教育教科書検定が行われ、沖縄における集団「自決」に関して初めて検定に意見がついたことが今回のデモへと繋がった訳である。

 言葉の使い方だが、沖縄大学学長の新崎盛暉先生の著述「現代日本と沖縄」からによると、
集団「自決」とわざわざ括弧づけで表記するようになったのは、
 ・集団自決とは戦場に放置された非戦闘員による集団的自決に他ならない。
 ・しかし、乳幼児が自らの意思で自殺することなどありえないから、絶望的状況における殺し合いと言う本質を表現するために「自決」と言う言葉をカギ括弧で括ることが多くなったのだと言う。

 以下、雑誌正論から引用

 

照屋昇雄氏の証言

渡嘉敷島から戻った翌日、那覇市のホテルで、私達は、照屋昇雄氏の
インタビューを行った。三欣会という沖縄保守系の人々の勉強会に参加
する形で、照屋氏は仲間と共に私達を待っていた。だいぶ緊張した様子
で、ご自身もそう話されていた。以下のインタビューは、五月と七月、九月に
照屋氏からお聞きした話の核心部分である。

「ずっと沖縄本島にいらっしゃったのですか?那覇市に?」
那覇市にいるんですよ。小さい時はクニガミのモトグというところ。
「沖縄戦は体験されてるのですか?」
体験しておりますよ。僕は重砲七連隊。僕はその時少年兵だから。捕虜
になりましたかね、一年八ヶ月だったかな。ハワイ(の収容所)で二十一歳
の誕生日、戦後戻って、あれやこれやして新聞社に入ったりしてね、食う
ためにいろんな思いして。

「その中で援護局の職員として採用されたということですね」

そうですね。琉球政府社会局援護課調査係、調査係の旧軍人軍属資格
審査委員です。政府関係者から『援護法ができて、軍人関係の調査を行う
からこないか』と言われ審査委員になりました。私は、島民にアンケートを
出したり、直接聞き取り調査を行うことで、援護法の適用を受ける資格が
あるかどうかを調べたりしました。各市町村をかけずりまわって調査をする
のは、南西諸島に対する旧軍人軍属に対する日本政府からの恩給、沖縄
戦で亡くなった人にはお金をあげましょうということで、沖縄戦について、
戦闘状況を調べてくれと。いつどこで戦死したかなど調査して、記録簿を
作って、厚生省に援護金をもらうために、私が審査員になったんです。

「なぜ今六十一年経って、当時のことを話すことを決心されたのですか」

私はね、本当、今までね、口をね、何十年間 全部封鎖しておりました
よ。で、渡嘉敷村のこと、座間味村のことが嘘で報道されて、嘘、言って
るんですよね。赤松隊長や座間味にいた梅澤隊長、少佐ですね、あの人
は。この方なんかにすまない、すまないと思いながら、今まで、もう歯くい
しばって、あっちの村の人も、全部心ひとつにしてね、誰が来ても、誰にも
そのこと、言わないといってね。何故、今ごろ私がね、その話をするかとい
いますと、大きな理由があるんですよ。

赤松隊長が、自決命令を出して、住民をね、谷底のところ、全部で三百
十五名、自決させたんだと、大きく報道しているのは、(沖縄)タイムスで
すよ、真実性が欠けてるんです。それはもう惨たらしい自決のやり方だっ
たんです。もう本当にね、一緒に調査した南方連絡事務所から来られた
マブチさんていう方がおりましたが、なんとか助けられんかというわけで、
援護法上、自分で死んだものは、自決は援護法に該当しないんです。
この戦争で、満州や南方全部、たくさんの人が自決してるんですね。

それを沖縄だけね、格別にできないということでね、絶対にそれはでき
ないということだったんですよ。村長さんの玉井喜八さんと二人でね、五十
五年だったかなあ、自決は軍の命令だったと嘘言って、文章書いて、書類
作って、援護金もらったなんて言えなかったし、それは責任問われたら
大変だし、今まで全部口を封じておりました。渡嘉敷島の人も、援護局の
書類を書いた人の小峰さん、誰も言わない、言ってはいけない、ということ

で隠し通していた。

玉井村長さんが死んで、あの人の慰霊をするために真実を明かすときが
来たんじゃないかという事で、奥茂治さんたちからもお話があって、正しい
ものを、後世に伝えなければいけないと思って、もう新聞に叩かれようが
何しようが、もう真実を述べてね、いいんじゃないかと思ったんですよ。
今まで、隠し通して、僕らももう年だし、いつ死ぬかわからんから、真実を
ね、もうハッキリしようじゃないかと、僕自身で決めたんですよ。

「渡嘉敷島ではどれぐらい聞き取り調査をしましたか」

 渡嘉敷村の場合は、あっちに約一週間くらいいましたね。いちいち、何か
調査するには、そんなくらいに長くかかるんですよ。要するに援護金の該当
するのは全部なんです。だからだいたいの嘘はわかりますってね。

「その時は、関係者の方、何人くらいから話しを聞いたのですか?」

そうだなあ、女の方から大方聞いてるからね、百から二百名…一日書い
て、夜はまた整理せんといかんですね、たくさんの人の証言をまとめること
は難しいんですね 

「その百名以上の方の中に、集団自決が軍の命令だと証言した住民は
いましたか」

一人もいないですよ。一人もいない。これは断言します。女も男も全部集
めて調査しましたよ。だって無いのに。軍の命令があったっていうのは、
僕は、沖縄タイムスの記者が自決のあったサイパンかどこかの記事を引用
してね、書いたんじゃないかと思いますよ。自決命令したとかなんとか言う
のは、サイパン帰りがおりましてね、サイパンでは隊長命令で自決したって
ね、それを沖縄に適用して真似てね、隊長命令と書いたんじゃないかと。

 

「蘇鉄(そてつ)地獄」を何とかしたい それに応えてくれた赤松隊長


「なぜ集団自決をしたのでしょうか」

沖縄での自決の実態を僕ら掌握してみたらね、沖縄のね、文化、風習って
いうかな、沖縄の墓は、外国で死のうと、どこで死のうと、全部こちらに、
大きな墓に祀るという昔からの文化があります。家族が全部集まる。その
文化があるので、あちこち死ぬよりも、家族一緒に死のう。そしたら誰か墓
に祀るだろう。

それと、当時の教育思想関係からして、国に減私奉公しようという気持ちで
死んだんです。撃ちてしやまん、アメリカにあれするより、一人でも殺して
死のうといって。

それと集団自決は、座間味が先なんですよ、二十六日。二十八日が渡嘉
敷。あっちの村長さん、農業組合長、校長先生ね、非常に熱血で誇り高い
人でね、最初、校長先生が切腹してね、自決し始めたらしいよ。もうぼん
ぼんアメリカ軍が上陸してるもんだから、じゃあ死んでいこう。その村長さん
と校長先生が死にはりまして、そしたら座間味の人は、こっちからこちらへ
伝えられましてね、僕らも死のうかといってね、三十二名ぐらいかな、自決
して死んだ、もう米軍に上陸されて混乱しているですよ。僕は死なないと
言ってこっちの島に逃げてた者が、もう大変だ、もう住民全部死んだ、全部
自決したって。それを聞いて、こっちからこっちに大きな噂が流れてね。

どうしようかこうしようか言う時にね、古波蔵っていう村長さんが、あの人、
村からね、信用無いんですよ。だって住民集めて、演説もしてるんです。
全部死ぬと言ってね、アメリカの捕虜になって女はアメリカのおもちゃに
なってとか、何とかかんとか言ってからね、もう自決やりましょうって手榴弾
持ってね、あの、赤松隊長が渡したってあれも嘘ですよ。防衛隊って言っ
てね、一般の人がすぐ召集されて、何でもない兵隊も軍だかわからない
ものを、鉄砲もつけたし、全部、手榴弾渡してあったのよ。一人くらい撃ち
殺せって、戦車をね、ぶっ壊せって。防衛隊の人たちがね、逃げてきてね、
村の人たちの中に入って、これを爆発させてるんですよ。もう全員死ぬと
いう噂が、流れ流れて渡嘉敷村の愛着を持っている人は、集まって自決
した。これが理由です。聞いた範囲は、これであります。

「集団自決を軍命令とした経緯はどうなんですか」

援護金の調査しているとき、1ヶ月間、アメリカから食糧の配給がストップさ
れ、その時に蘇鉄を食って死んだ人がいる。「蘇鉄地獄」と言ってね、その
時にね、援護法ができてるからなんとかしてみようと、あまりに惨たらしい
死に方だから、かわいそうだというふうで、東京の(南方同胞)援護会なん
かも掛け合って、援護法の適用って出来ないかってことになって、南方連
絡所のマブチさんという人が、もう泣くぐらいに懇願した。なんとか助ける
方法がないかって言ってね。審査委員会というのがありましてね、東京で。
その時にはね、何回言っても、ノー!駄目って。日本国中ではそういう人
たくさんいるからね、駄目だって言って、ああやこうやしてるうちにね、その
規定の中に、隊長の命令、もしくは、隊長の命令による銃殺、もしくはスパ
イ行為とかで、援護法の適用法律がある。

その中に「隊長の命令によって死んだ場合は、お金をあげましょう」という条
文があるんだが、実際に隊長の命令で自決したという人はいなかった。
そしたらね、誰なのかわからんが、誰かがその当時の隊長さんたちに
ね、お願いして、とにかく、自決命令を出したと言ってくれ、そうすれば(政府
から)お金が出るからと言ってね、しかし、誰もならない、馬鹿じゃない
限り、あんた、自分で自分を、縄で首しめる隊長はいないですよ、そして
十二月頃かな、最後の東京の会議がありましてね、私は参加しておりま
せんが、渡嘉敷の玉井喜八村長さんが、参加したらしい。

その時に、厚生省の課長さんかな、なんか、赤松さんがね、村を助けるため
に十字架を背負いますと、言いよったよということなんです。
村長さんは早速、赤松隊長に、自宅に会いに行ったの。兵庫県かどこか
関西の方…そこへ行ってですね、隊長命令だったという命令書を書くとい
うことになっているそうですが、ということを話したらね、お前ら書いて
こい、お前らが書ければサインして判子を押しましょうということになった
んです。

村長さん大喜びしてね、二十五日頃帰ってきましたよ。書類と資料提出が、
翌月の十五日か十六日までに間に合わして、その隊長さんの命令って
書くんだから、二人で、大晦日だったなあ、二人夜通しで作って、大晦日と
いう、書き終わってね、二人で一杯飲みながら、もう夜明けで…。

「それは命令書なんですか?」

あれはね、命令じゃなかったな。渡嘉敷住民へ告ぐと書いてある。玉井村長
と二人でね、赤松隊長の身になって書いたからね、何年何月何日、渡嘉
志久から米軍が上陸して、もはや村の役所の前にきてる、国のために
降伏せず、一人でもアメリカ人をやっつけて、というよう内容だったはず、
住民もね、死して国のためにご奉公せよとか沢山書いて、自決せよとか
そんな命令じゃないんですよ、教育じみてるのが命令書となってるんです。
 
「それは、赤松隊長には見せたんですか?」

サインして(判子を)押して、(翌年)一月十五日だったかな、閣議に出さな
ければ間に合わないということで、十五日までに、間に合わすよう、村長
さん持っていったの。サインと判子を宜しく貰って、喜んでね、間にあった
と言って、二人でまた飲み屋で一杯飲んで。私はあとから、南方事務所の
マブチさんという人に「赤松隊長、どうして、お願い聞いてくれたのかね?」
と聞いたら、「照屋君、あの人は、沖縄病といわれるくらい沖縄にかかって
いる偉いい方から、何とか沖縄を救えないかと耳打されたという話がある
んだが、だからあんなに一生懸命になっているんだよ」と。

本当か、真実はわかりませんよ。赤松隊長が、私が命令したということに
しようと十字架を背負ってくれた。赤松隊長さんは、村民からは、神様みた
いな方だった。非常にいい人、私も、会ってみてそう思います。

「住民は、赤松さんがそうやってくれらから援護金が出たことを知っているの
ですか?」

わかってる。だから、いかにどんな人が来てもね、口をつぐんでいる。唇寒し
でね、絶対言いませんよ。向こうの住民は、絶対に、

「援護担当だったコミネさんは喋ってくれないのですか?」

言わない。あの 村のね、援護係してたのは小峯幸信。まず言わないでしょ
う。五十年くらい前よ、絶対言ってならん、死んでも言ってならん、これ言っ
たら、大変になるよつって、玉井村長と小峯さん、この僕と三人で誓いを立
てたんです。村民はね、これを聞いてね 全部わかるわけです。絶対言わ
ない、座間味も同じ。

「あらためて、お聞きしますが、なぜ、今証言すると決めたんですか」

深い理由があるんですよ。赤松隊長はね、余命三ヶ月、ガンで亡くなった
らしいんですがね、電話でね、私は命が三ヶ月しかありません、だから、
玉井村長、村史から私が自決命令をしたと、あれをね、削除して、その訂正
文をはさんでくれんかと何回もきた。何回もね。そうしたら村長さんはね、
赤松隊長はもう病気だし、照屋くん、どうしたらいいか、恩はあるし、村史
からこれ消したらいけないし、僕はもう寝ても起きてもできないよってね、
どうしたらいいのって言ってね、いろいろ弁護士とかね、いろいろ調べたら
ね、ああもいかない、こうもいかない、もう、心配して眠ることもできないん
ですよ。

そしてどうしようかって二人とも夜通し酒飲んで、帰ってきても、また電話き
てね 照屋くん、僕、ウィスキー飲んでも、睡眠薬飲んでも眠れんつって。
僕は慰めてね、宥めながら何回も呼ばれ、やけ酒飲みました。そして赤松
隊長が亡くなったら、玉井村長、あの人は、ああも出来ない、こうも出来な
いと毎日心労してね 病気して、間もなくして死にましたよ。あの人はこれで
死んだんですよ。

考えてみんさいよ、どこの隊長がね、学識ある人がよ、例え命令したと
言ってもね、命令しなかったと突っぱねるのが普通ですよ。悪いことを僕が
引き受けましょうって、いかに善い人であるかね、本当に十字架を背負って
ね、僕らは毎日手を合わせておりましたよ。だってこの人に責任負わせて
苦しめているでしょ、新聞に赤松隊長の悪口見たりするとね、心が張り裂け
る思い。胸に短刀裂かれる思いしよった。あんないい人をね、だから私も
ね、真実を言ってね、もう隠すもんじゃない、言うべきとこは言っておこう
と、もう寿命しれてるからって言ってね、生きてるうちにはっきりしたことを
申し上げようと思って今、申し上げてるんですよ。あの人のね、御霊をね、
安らかにするために、私は真実を言わなければいけないんです。

インタビューを終えた照屋氏は、長く苦しかった「沈黙」から解き放たれたせ
いか、疲れてはいたが、ほっとした様子とすべきことをした誇りに満ちた
表情を浮かべていた。インタビューの途中では、何度も声を詰まらせ、
涙を流した。その涙が、凍結されたままだった「沈黙」を一筋づつ溶かして
いくように思われた。男の涙はいいものだと思った。

電話が鳴ると心臓が縮む 真実語った照屋さんの今

さて、二人のインタビューでも指摘されていない一つの「沈黙」について、私
はあえて述べておきたいと思う。慶良間諸島の皆さんの「沈黙」は、ただ、援
護金をもらうために自決を軍命令にしたという理由だけではないということで
ある。

それは、もし、軍の自決命令が無く、戦前の日本の「軍人勅諭」的な価値観
を採らず、戦後の価値観で考えてみると、集団自決は大規模な無理心中
殺人事件であり、当時残っていた法律の「尊属殺人罪」の適用も考えられ
なくはなかったのである。情状酌量の余地は勿論あるが、少なくとも戦後
的価値観で見れば、特殊な状況下における殺人事件と見られても仕方
ない。

だからこそ、どんなことがあっても、軍命令としたかった要素もあったのでは
ないか。戦前までの日本において、自決は自らの誇りと武勇、栄光を体現
するものだった。慶良間の集団自決もそんな流れの中に起きた。集団自決
で散華なさった皆さんを軍国主義に騙された戦争被害者として片付ける
戦後日本と沖縄に、私は怒りすら覚えるのである。

私達は、この照屋昇雄氏と金城武徳氏に対して五月に行ったインタビュー
内容を文字メディアで取り上げてもらおうと、テープと企画書を産経新聞社
に持ち込んだ。産経はこれまでも集団自決問題について積極的に報道、
論評してきたが、今回も記者が沖縄まで取材に飛んでくれた。それが八月
二十八日付けで、同紙一面(東京版)に掲載された記事である。  
私達も衛星放送「日本文化チャンネル桜」(CH767)として、八月十五日、
「沖縄集団自決の真実」として特別番組で放送した。この反響は大きか
った。インターネットの2ちゃんねるでは、投稿数が一万を超える大きな反応
を呼んだ。照屋さんの勇気を称える投稿がほとんどだった。

これに対して、沖縄ではどうだったのか。集団自決は軍命令だったとする
主張の大本となった「鉄の暴風」の出版元で現地の新聞社「沖縄タイムス」
は、冷たい黙殺を続け、沖縄タイムスと並ぶもう一つの現地新聞社琉球
新報は、早速文化欄で、「集団自決訴訟 問われる沖縄戦観」と題して
訴訟被告側の岩波書店編集局副部長のインタビュー記事を掲載した。
その見出しは「軍の残虐性否定が目的 沖縄の人々への挑戦」という刺激
的なものだった。

九月初め、私たちは再び座間味島取材のため、沖縄を訪れ、照屋さんに
話をうかがった。新報の記事が出ても、その決意は全く揺ぎ無いものだっ
たが、電話が鳴ると心臓が縮むような思いがすると話していた。琉球新報
も、その後はインターネット上の反応に恐れをなしたか、沖縄タイムス同様、
沈黙を続けている。この両新聞を読んでいると、朝日新聞が保守新聞に
思えてくると言っていた沖縄の知人が、曽野綾子氏さんの『沖縄戦・渡嘉敷 
島集団自決真実』(絶版になっていた『ある神話の背景』をWAC出版が今年
五月に文庫として復刻)那覇市内の書店の店頭には並らんでいないと連絡
して来た。これが戦後沖縄の現実なのだろう。

 そういえば、大江健三郎氏が、九月になって五回目の中国訪問をしたと
いう報道があった。大江氏は、南京市内にある「南京大虐殺記念館」を初
めて訪れ、「館内には展示品がたくさんあるが、大江氏は一つひとつに丁重
に頭を下げていた」「頭を下げた回数は全部で100回を超えているだろう」
(九月十三日付、中国紙「現代快報」)「大江氏は日本人の鑑だ」(同紙十四
日付)などと現地メディアに報じられた。このノーベル賞作家の中国での
神妙な平和の使徒のごとき表情を想像すると、私は笑うに笑えず、得体の
知れない私達人間への「沈黙」を余儀なくされるのである。

取材スタッフ 井上和彦・仙頭直子
取材協力 奥茂治(南西諸島安全保障研究所) 
                  産経新聞記者 豊吉広英

 

 照屋さんの論旨は、余命いくばくも無い赤松大尉の名誉回復がトリガーになって、渡嘉敷村史からの、集団「自決」命令のくだりの削除を村長とも相談したが、挙句純真な村長は、心労に倒れ不帰の人となったということ。

 赤松大尉には感謝の念が絶えないということ、照屋さん自身も解放されたかのような気分を少しだけ味わったようだが、意見の違う対立陣営からの心理的攻撃も絶えないということが伺える。

 チャンネル桜陣営の論旨は、「尊属殺人」の適用も法改正前ならありえた話。
 更に、
 

自決は自らの誇りと武勇、栄光を体現
するものだった。慶良間の集団自決もそんな流れの中に起きた。
集団自決
で散華なさった皆さんを軍国主義に騙された戦争被害者として片付ける
戦後日本と沖縄に、私は怒りすら覚えるのである。

 と、結論付け、憤ってしまっている。
 
 筆者は流行の愛国少年やネットウヨでもなければ、
ネットサヨでも無い訳だから、根拠が希薄で乱暴な、
上の論調には少々うんざりもしたくなる。
 確かに、尊い命を国に捧げた(結果的にでも)とする考え方には、
納得は出来ないが否定も出来ない。
 その時の気持ちは、その死んで行った人にしかわからないのだから。

 だが、誰が好き好んで、沖縄戦や末期の旧軍幹部がしでかした
惨たらしい作戦下での多くの悲惨な戦況下での死を、喜んで受け入れたと言うのだろうか。

 それは「栄光ある死」だったのだろうか。
 違うであろう。
 きっと惨めで、とてもじゃないが正視しうるようなものなど
いないほどの、一人の人間にとって悲くも情け無い出来事であったに違いない。

 振り返れば、琉球-沖縄とつづく島の歴史は悲惨さの連続だった。
 いちばん悲惨だなと、筆者が感じることは、
時の為政者に裏切られ続けてきたこと。

 1840年頃は、欧米列強の盾代わりに使われた琉球処分のはじまり。
 国の懐柔政策とはいえ、国王一族は随分と優遇される中で
ソテツ地獄が起こったりなど、沖縄民衆の苦しみは沖縄県の配置から
すぐの頃からあった。

 悲惨な状況の頂点は、国の盾に文字通り差し出された、
究極の持久戦と言える「沖縄戦」なのだろうが、
いま多くの日本人が忘れてしまったか、歴史でも大して
教わっていないからか薄れ行く現実、沖縄の本土復帰。

 筆者がいちばんに納得がいかず、許せないと思うことは、
1947年9月に出された天皇メッセージであることは間違いない。
 
 沖縄を空軍基地とし要塞化すれば、
「日本の本土に軍隊を維持することなく、外部の侵略に対し日本の安全性を確保することが出来る。」
と言う、現在の安保の骨子にもなったマッカーサー発言が1947年の6月に為された。

 これに対し、昭和天皇は、側近の寺崎英成を通じて、
「アメリカが、日本に主権を残し租借する形式で、25年ないし50年、或いはそれ以上、
沖縄を軍事支配することは、アメリカのみならず日本の利益にもなる」と
GHQへ伝えた。

 このメッセージがどれほどの効力をもっているかどうかなんて、
現在の常識からすれば失笑ものなのかも知れない。

 ただ当時の天皇の力はいかばかりかと、考えずにはいられない。
 現人神ではなく、すでに象徴天皇に在らせられたことは百も承知。
 しかし、時の内閣や、天皇の力を殊更に有効活用しようとした
GHQの動きを見れば、明々白々なほど効果的であったに違いない。

 戦争が終わってもなお、天皇が国事に口出しすると言う憲法上の
問題を犯してでさえ、アメリカとの橋頭堡に利用されたという現実。

 もしこのことが真であり、現代の沖縄の若者たちが知っていることであるならば、
絶望的な気持ちになってしまう。
 「天皇にでさえ裏切られた」「捨てられた」人々の絶望と悲しみ。

 「正論」なんかでよく言う『fact』は重要なのかもしれない。
 
 ただ、相手は同じ日本人なんだぜ、と筆者は思う。
 
 別段、これらのことをタブー視する必要性などないが、
同じ日本人として、その心情を慮る必要はあるんじゃないかとか。

 追記

 「正論」9月号、前出の拓大藤岡教授の記事などを読むと、
そうとは書いていないが、どうも教科書検定における橋頭堡に
なりつつあるのが今回の問題であるように思う。
 つまり、中韓両国はもとより、米国なども加担している、
とある歴史認識の事実性についての議論の、
「入り口」か「いけにえ」にされてしまっているようなのだ。

 ここで「事実」をないがしろにされて、沖縄県議会による
教科書検定意見撤回要求などを自民党政府が受け入れて
しまったならば、本論である部分の検定さえ覚束ない状態に
なるとの危惧心があるのだろうか。
 (国内の問題なのだから、ここは本来、左側の陣営も考慮する必要がある)

 やりかたはどうなのだろうか と。
 相手の気持ちを考えるゆとりが、
必要なのでは。

 せめて日本人相手なのだから と、
考える筆者は論理立てが適当な甘ちゃんなのかも知れないが。

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