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2005年6月 4日 (土)

筋違いなFlatとWeb(修正版)

 週末にかけて時事ネタをエントリーする前に、件のガ島こと藤代裕之氏より「藤代裕之 裸の駄々っ子」からにじみ出るものと言うエントリーがあり、それに対する「引き篭もり」の泣きながら書いたであろうと思われる「僕は、僕が」がやたらに多い藤代裕之さんへ贈るリアル。[燃えないブログの作り方]を、したたかな読者(笑)らしく「読み込んだ」(あほくさ)。
感想を述べるが、 もの凄い時間とパワーの無駄だと単に思った。
 ほんとうは感想はそれだけ。

 ネットの普及で、環境が整えば誰もが公に向けた批判者になりうる。歓迎すべき状況だ。しかし、結果「引き篭もり」エントリーからも筆者が感じたように、指摘や批判に長けたものばかりがもてはやされる。「高校生が喫茶店で駄弁る」ような風潮ばかりが目に付く。
 
 会社生活でもそうだが、「批判」は楽なのだ。回収が大儀なのだ。
 自らが社会的に失うべきものもない自称「真性引き篭もり」ならもっとも楽なモノが他者への遠慮ない「批判」だろう。
 
 ネットと言うものはと言わずもがなだが、ネットワークコミュニケーションにおけるツールであろう。

 それがなんたるかの定義はここでは触れない。

 批判・指摘から議論→PDCAとは言わないが、なにがしかのリザルトを原批判者が求めるのならば、最低限のエチケットやモラルは守られるのが当然の流れだ。(リアルならばなおさら)

 攻撃や人格批判、推測の域を出ない「行為の観察」を行ったうえでの嘲笑などを、コミュニケーションの相手側にそれのみ行えば、色よい返事が期待できないことなど当然に予測できることだが「真性引き篭もり」には理解できない。
  いい訳がましい、なにやら薄っぺらい涙目ウルルの「僕ちゃん」エントリーが生み出された訳だ。後付で。

 ガ島氏の苦難はそれだけに留まらず、
「ひきこ」周辺の双方向性コミュニケーション不能なコメント者からも、併せて批判に晒されたこと。

氏には「匿名掲示板とブログの違い」を説いてきた経緯があるから、この流れが甚だ遺憾であるのは当然のことだった。(つうかもっとガ島の文章嫁と)

 ブログとは、双方向性が他媒体との大きな差異と、筆者もおぼろげながら考えている。

 双方向性コミュニケーション不能者(名付けてブログED者)wからの問いかけにも、無理難題なコミュニケーションを求められるガ島氏も疲れ果てて当然だよと筆者は共闘せずにはいられない。(うーんマンダム) 

 誰もが簡単に批判者には成り得るが、  
 批判者に成るほど簡単に創造者にはなれない。
 
 これを「リアル」でも出来れば六本木三丁目の坂下にあるバー カスクでシングル5,000円の単樽ウイスキーをしこたま飲れるリアルセレブな筆者のようになれるのだ。ウソ(最近飲っていないが)

 会社(リアル生活)の中なら、「指摘」をした自らがスキームを構築して実行し、見届けまでして一つの仕事が完結する。
 これが出来ないようなら「不良債権社員」(笑)と呼ばれても仕方がないんじゃないかと。

 その観点からすると、ガ島氏も、「内部批判者」から新しい「value創造」を試みた。
 しかし、外形的に「単なる批判者」のまま前職を辞したことは紛れもない事実だ。
 
 この部分の批判・指摘については甘んじて受けるべきなんですよ。
 
 会社生活、経済活動の側面から切り取るなら「ひきこ」の批判・指摘はタダの言ったモノ勝ちの世界観と言うべきものではない。

 言ったモノ勝ちなどという価値は「リアル」社会に、もはや存在しない。

 例えればある批判を行って賛同的な主旨のコメントだけはもらえるが、それによって得られる物質的なものなど皆無に近い。
 終局的には批判対象であったものへの無償対応、争議に巻き込まれ、肉体的にも精神的にも社会的属性にも自身に不相応な対応を求められるだけだ。リアルでもブログでも美味くない。一見奔放であるからもてはやされるが、経済活動が伴わない「批判・指摘」は一過性にならざるを得ず、大した効力もないまま「消費」され終わっていくのです。夢見がちな思春期少年の涎のように。


 ユカタンメモと言うガ島氏批判のブログから引用(うひゃ)

 >その言論を取り巻く環境は考慮しない。
 >言論に対して観測不能な基準を持ち出すのは言論の信頼性を損なうからだ。
 >私は給料を貰っている人の言論が妥当であるとは考えない。
 >同様に引き篭もりの言論が妥当ではないとも考えない。

 引用ここまで(うひょ)

 と書いてあるのですが、筆者が遭難しかけたモルディブの海溝のように青い。(うほ)

 「リアル」に「言論の正当性」判断基準など、実はどこにも存在しない。

 「リアル」ではリリースする側の姿勢や背景、受け取る側の社会通念のみで、正当性は判断されている。
  終局的に、数こそ正義だ。そして誰もそれを否定できない。日本の仕組みだから。
 山奥に篭り、一切の経済活動を行わない者が優れた「言論者」と呼ばれることはなかった。
 人は評価をされ喜びを覚える。誰もその誘惑からは逃れようがない。

 山や引き篭もっていた部屋から、誰もが引っ張り出される。それこそが「リアル」だ。
 

 自らに賛同する者が新しい何かで、批判者が「リアル」に毒されたモノなどということなどない。
 

 属性や背景をまったく顧みず、全くの無情報で評価を行うことなど不可能だ。
 次エントリー「パターン認識」参照

  
 筆者は「単なる言論」なんてものはブルジョワなものが繰り出す遊戯だと考えている。
 結びはいつの世も言論にとどまらなかったから。

  

 「ホリエモンの売国愚挙の行為」賛同論者は若者と呼ばれる側に多かった。
 それは、
 言論にとどまらず、既存の価値観を破壊せしめんとする「実行力」(リアル)そのものに
価値を見出したからじゃなかったの?と筆者は問いたい。

 
  


  全てのものは当たり前のことになっていく過程で「終わっていく」
  

 
 匿名・実名の論議でも滲み出ていた風潮。

 匿名礼賛主義側にいるものは、「共産主義」「トロッキズム」の賛同周辺者には近しい感覚をもつものがあった。
 「都会風の立身出世主義」によってそのような主義主張はもはや中共にあってさえ風化しつつある。
 
 ネットで金儲けをしているものなら「匿名」に皆を押し込めていたほうが商売がしやすい。
 彼らからの匿名擁護は説得力が希薄だ。後期の毛。
 

 誰にだって「都会風の立身出世主義」を実現させる可能性は残されているのだ。「わたしが失った時、かれらは得る」のが戦後最大のムーブメントなのであって今もそれは終わりを知らない。自らが望まずに「匿名者」とされ秘匿された歴史そのもの、若しくは大陸に今も残存する価値観を筆者は望まない。

 匿名を礼賛し、その実そのもの自身が匿名媒体を活用して経済活動を行う事実を見過ごしてはならないのだ。


 色々読みにくいとかあったので、それなりに修正しました。律儀にね はは
 
 

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